| このページは 04月のキャッシュ情報です。 |
本来とは?
[ 58] ジャーナリズム本来?
[引用サイト]
http://www.jca.apc.org/~altmedka/journal.html
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憎まれ愚痴総合案内>項目別案内>2000年『デカメロン』序章の城>3.電波メディア「学界」批判> 1学界嫌い/2学説公害/3「ナレアイ性」/4当局見解の守護神殿/5徹底的暴露/6独占と非民主的な社会主義/7ジャーナリズム本来? 「ジャーナリズム性善説」の基本構造は、アメリカの歴史に発している。にもかかわらず日本に輸入される際には、歴史の発端が消え失せてしまった。日本では、あたかも人類史はじまって以来の神話のごとくに、「ジャーナリズム性善説」がまかり通っている。これも呆れた話だ。 日本には、「ジャーナリズム本来」あるいは「本来のジャーナリズム」という「何か」があって、その「本来」の姿からみると「日本のマスコミは腐敗している」という批判をする人がおおい。こういう批判をする人々には、「ジャーナリズム」とは本来大変に立派な仕事なのだ、もしくはあるべきだという気負いが見られる。その気負いそのものは結構なのである。だが、そのためにかえってジャーナリズムの本質が、曖昧にされ、ごまかされてきたのではないかというのが私の考えである。 情報活動は、なにもヨーロッパにはじまったわけではないが、これは言葉の問題だから仕方がない。残念ながら「脱亜入欧」根性の日本で今や国語として通用する「ジャーナリズム」の語根「ジャーナル」の語源は、ラテン語の「ディウルナ」(原意・日毎の)であり、カエサル(英語読みはシーザー)が始めたローマ共和国の日刊情報紙に溯る。 紀元前五九年、カエサルは二種の手書き新聞を創刊し、ローマ政庁前の掲示板に張り出させた。一つは『アクタ・セナトゥス』(Acta Senatus.元老院の活動の意。アクタは転じて「日報、官報」をも意味)であり、もう一つは『アクタ・ディウルナ・ポプリ・ロマニ』(Acta Diurna Populi Romani.ローマの人々の日々の活動の意。通称アクタ・ディウルナ。ディウルナも転じて「日刊新聞、官報」を意味)であった。ともに、文筆業の教育を受けた「奴隷」による筆写版が配られた。遠征中の将軍にも騎兵が届けた。将軍はさらに現地で筆写をさせて、前線兵士にまでローマの状況を伝えることができた。 「ディウルナ」の原意が示すのは「日刊」のみであって、言葉そのものにイデオロギー的性格はなかった。実際上の機能を強いていえば、軍事的独裁権力を握っていた当時のカエサルに奉仕する「速報」の道具である。内容はまさに「官報」そのものだったから、「アクタ」にも「ディウルナ」にも、その「官報」の意味が加わったのである。 以上の事実経過からみるかぎり、起源を明らかにしない「ジャーナリズム本来」などという言葉をつかって、民衆の側に立つのが「ジャーナリズム」の「本来」の社会的役割であるかのように論じるのは、かえって「ジャーナリズム」の歴史的な本質を見失わせることになる。確かに民衆の側も「ジャーナリズム」という装置をわずかながらに、またはときには効果的に自らの武器として用いるようになった。トマス・ペインのパンフレット、『コモン・センス』や、独立戦争中に発行され続けた『危機』シリーズなどは、その最も効果的な実例であろう。だが、歴史的に「本来」とは何かとなれば、むしろその逆に、権力支配強化のための道具だった。 また、ギリシャ・ローマ時代には、筆写だけでなく、哲学までが「奴隷」の仕事だったことを考え合わせれば、初期の「ジャーナリズム」の従事者の社会的地位は、決して高いものではなかった。 「ディウルナ」の創始者カエサルは、独裁権力を恐れる元老院議員らによって暗殺された。だが、かれが意図した遠距離コミュニケーション手段をもつに至ったローマ共和国は、さらに巨大な、あまたの異民族を支配下におく帝国へと発展したのである。 「メディア」(媒体)または「マスメディア」(大量媒体)についても、「マスコミ」マス・コミュニケーション、大量伝達機関)の語意についても、やはり、同じことがいえる。基本は情報伝達の手段、道具であり、それ自体にはもともとイデオロギー的立場はない。このような「ジャーナリズム」の歴史と原理にてらして考えるならば、「翼賛ジャーナリズム」などと論評される日本の大手メディアの現状こそが「ジャーナリズム本来」であり、歴史的な本質をむきだしにした「先祖返り」の正直な姿なのである。 「社会の木鐸(ぼくたく)」の方は、日本語というよりも中国語というべきであろうが、この起源も権力側の道具にあった。木鐸は木製の鈴のことで、役人が法令などを触れ歩くときに鳴らしたものだ。これに「社会の」という形容詞をつけて、民衆の側の警報を自称したわけだが、その自称に相応しい仕事を果たした実例は、どれほどあったのだろうか。これなどは言葉の出自がはっきりしているだけに偽善を暴きやすい。 科学的に考えるための基本的姿勢とは、相手がいかなる権威であろうとも、まず、すべてを疑ってかかることにある。とくに当局発表は徹底的に疑うこと。建前よりも本音を追及すること。時代背景を確かめること。誰の仕事か。どういう人脈が動いたか。誰が利益をえたか、などなどの調査の初歩的原則は、いわゆる犯罪捜査の基本と同じである。 ひところしきりにテレヴィを「一過性」とか「一時的で表面的」と見下しては得意がる活字メディア人種が見受けられたが、いまではほとんどの大手の活字メディアも「一過性」の傾向に陥っている。そんな活字メディアをふくめた「喉元過ぎれば熱さを忘れる」習性は、結局のところ体制迎合に陥ってしまう。やはり、じっくりと問題点を煮詰めて論じなければ、同じ嘆きを何度も繰り返すことになるだろう。 ただし、「問題点を煮詰める」とか「愚直な作業」とかいってみても、言葉だけが先走っていたのでは仕方ない。 まずは「問題」の範囲を大胆に「人権」とか「人類史」とかの深淵にまで広げておく必要があるだろう。メディア全体をも視野にいれる必要がある。電波だとか活字だとか印刷だとかの分類はあるにしても、その機能は結局、メディア(媒体)であるにすぎない。それをつうじて市民個々人、または人間、人類、ホモ・サピエンス、はだかのサル、そのほかなんとよぼうとかまわないが、この動物が情報をつたえあうことにこそ真の意義がある。メディアは、こえ、みぶり、めくばせ、さわりあう行為などの延長である。人間が集団生活をするための手段の延長である。さらにそれをうらがえせば、個々人が集団のなかで自己主張をする手段の延長でもある。この相互関係の必要性こそが、人類史の発端において声帯の発達をうながし、ついでは異常なまでの新皮質の発達を刺激した。ところが現在、民主主義とか人権の尊重とかが表面上こわだかにかたられているにもかかわらず、人類のみが所有するメディアの機能は決して個々人に平等に配分されておらず、その不平等状態を告発する運動はほとんどみあたらない。 以後、 200余年、この「もっとも貴重な権利」は、いかにも粗末に取り扱われてきた。電波メディアの発達は、ますますその傾向を加速した。ジョージ・オーウェルが警世と予言の書に描いた年限の『1984年』をすでに10年以上も越えた現在、不気味な暴走を続ける電波およびエレクトロニクス技術のメディア状況を直視しながら、人類史の発端と、または、もしかすると終末の底なしの深淵とを、同時にのぞきこんでみたいものである。 |
[ 59] 海外派兵を「本来任務」化/イラクもインド洋も/自衛隊法の改悪案概要
[引用サイト]
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-01-27/2006012702_02_0.html
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自衛隊の海外派兵を「本来任務」(主要な任務)に位置付けるため、政府が今通常国会に提出を狙う自衛隊法改悪案の概要が二十六日、分かりました。国連平和維持活動(PKO)のほか、周辺事態法に基づく米軍支援や、時限立法に基づくイラクとインド洋への自衛隊派兵も「本来任務」へ格上げするものになっています。 「国際平和協力活動等の本来任務化について」と題した防衛庁作成の文書は、「(自衛隊法)改正のイメージ」として、「自衛隊の任務」を定めた第三条に、これまで「本来任務」とされてきた「わが国防衛」(第一項)に加え、第二項を追加。この中で(1)「周辺事態に対応して我が国の平和及び安全の確保に資する活動」(2)「国際社会の安全保障環境の安定化に資する活動」―を挙げています。(1)に周辺事態法、(2)にPKO法やテロ特措法、イラク特措法に基づく活動を位置付ける方針です。 同文書は「本来任務」への格上げを、海外派兵のための「態勢整備の一環」と説明。このほか「態勢整備」の例として「教育訓練体制、所要の部隊の待機態勢、輸送能力等の整備、復興支援等に専門知識を有する人材の育成等」を挙げています。 政府はこれまで、自衛隊が違憲の軍隊であることへの批判をかわすため、「わが国を防衛するための必要最小限度の実力組織であるから憲法に違反するものでない」と弁明してきました。このためPKOなどの海外派兵は「わが国防衛のために培ってきた自衛隊の能力を平時に活用する」ものとし、自衛隊の任務としても「付随的任務」と位置付けてきました。 「本来任務」化は、これまでの政府の説明をも逸脱し、自衛隊を“海外派兵隊”へと本格的に変質させるものです。格上げを図る活動について、このほかに「在外邦人等の輸送」「機雷等の除去」なども挙げています。 いま話題です 「しんぶん赤旗」 メディアも注目の「赤旗」 「しんぶん赤旗」は2万号 真実を伝えつづけて 本当がみえる 暮らしに役立つ「しんぶん赤旗」の魅力紹介 働けど…若者たちは 政治国際経済社会 地方国民運動学問文化 科学くらし家庭スポーツ テレビつり行楽電話相談 学習党活動読者の広場 「しんぶん赤旗」主張 Q&A 知りたい聞きたい 注目のキーワード 世界と日本が見える、生きる 勇気がわく 貧困と格差の拡大、憲法改悪…危険な安倍内閣と対決し、国民の暮らし、平和守る日本共産党 くらしと労働の現場から 平和・憲法をまもるたたかい 世界の流れがわかる くらしに役立つ 大反響 「現代こころ模様・葬儀考」が本になりました ゆうPRESS若いみなさんといっしょに考え交流し合っていきます 列島だより ふるさとの話題が満載の特集(毎週月曜日掲載) 囲碁・将棋 「しんぶん赤旗」主催の棋戦 新人王戦熱戦続く日本棋界の若手登竜門 第44回赤旗名人決まる 「赤旗」編集局案内 ご存知ですか?──日刊「赤旗」はこういう新聞です |日本共産党ホーム|サイトマップ|「しんぶん赤旗」|著作権|リンクについて|メールの扱いについて| |
[ 60] 本来の姿、それは吸血鬼
[引用サイト]
http://www.interq.or.jp/world/mado/genshiji/970623/HONRAINO.HTM
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全国に2000以上もの組織を抱え、900万人近い膨大な数の組合員を抱える巨大組織、農協。彼らは現在、各方面から様々な批難を浴びているが、奇妙な事に、彼らの本来の仕事である「援農」に対する批判は少ない。批判の多くは、「銀行や商社みたいな仕事はさっさと止めて、本来の姿に戻れ!」というものである。 しかし、本当にそのような批判だけで十分なのであろうか?「本来の姿」である「援農」の機能には、何の問題はないのであろうか? 農協はむしろ、「本来の姿」とかいう「援農」にこそ、日本を危機に陥れかねない数多くの問題を抱えているのだ。 農協に対しては現在、「援農」という本来の機能を忘れたその「商社的」体質から、住専問題に伴う「政商的」体質まで、様々な批判があるが、本来の機能である「援農」についても、問題は山積しているのである。 例えば、全国の農協は、組合員向けに「防除暦」と呼ばれる表を作成し、配布している。これは、一年のいつ頃に、どの農薬をどのように散布したら良いかを事細かに記した、「農作業カレンダー」とでも言うべきものである。 防除暦は、各作物ごとにこと細かく作業を指定しており、同じ作物でも農協によって、使用を指示されている農薬の種類や量は異なる。 日本に存在する数多くの農薬会社が扱う、星の数ほど存在する農薬。中には、効果のほとんど変わらない似通ったものもたくさんある。それらのあまたの農薬の中からいったい、どの農薬を防除暦に載せて、農民に使用を薦めるか、それによって、農薬会社の利益が大きく左右される事は明らかであろう。 全国の農家は、農機具や農薬等の購入のほとんどを農協を通じて行っている。従って、農協が扱ってくれない農薬は、商業的な失敗を約束されたも同然なのである。 このように、農薬会社の運命を左右するほどの巨大な力を保有している農協であるが、防除暦の作成や、扱う農薬の種類の決定の過程などは極めて不透明である。 ここで、当然誰でも予想してしかるべき事態が発生する余地が生まれる。つまり、農薬会社から農協有力者への、利益供与、はっきり言えば贈賄である。 農薬の開発は、極めて長い時間と膨大な費用を必要とする、極めてハイリスクの投資である。最低10年の期間と20億円の費用が必要なのだそうだ。しかも、これだけの労力を傾けたとしても、「使い物になる」新しい農薬を開発できるかどうか、確実な事は言えない。 20億円の投資。それによって運良く、新しい農薬を開発する事が出来たとする。ところがせっかく出来た新商品も、買ってくれる顧客が誰もいないと全く意味が無くなる。そして、顧客を確保できるかどうかは、農協の決定一つにかかっているのである。 20億円の投資。それが無駄になるかどうかが、農協の有力者の気まぐれ一つにかかっているのである。20億円が回収できるのなら、彼らのご機嫌を取るために1億円の鼻薬を用いたとしても、それほど大きな出費ではあるまい。全国に散らばる2千以上の農協の数を考えれば、影でどれほどの金が動いているか、想像に難くはあるまい。 さて、防除暦に話を戻そう。今仮に、あなたが農民で、農協から配布された防除暦に従って農薬を散布したとしよう。ところが、農協の言う通りに大量の農薬を買って使用したにもかかわらず、作物に病気や虫害が発生したとする。あなたは一体どうするか?農協に対して文句を言うのではないか?「おまえたちの言う通りにやっていたのに、被害が出てしまったではないか!どうしてくれる!」と。 こんなクレームが来た時、農協は一体どうするか。改善のためにどのような対策を採るであろうか。答えは簡単である。「使用する農薬の量を、さらに増やす」のである。 農協と農薬会社との影での馴れ合いの結果せっかく決定した農薬の種類を、おいそれとは変更する事は出来ない。「投資」を裏切るようなそんな「不誠実な」農協は、いくら農薬会社でも今後信用しなくなるであろう。勢い、選択肢は「更なる使用量の増加」という所に落ち着く。そうすれば、農協にとっても農薬会社にとっても、めでたしめでたしなのであるから。 実際農協は、そういった農家からのクレームがくる事を見越して、適量を遥かに越える過大な量の使用を、あらかじめ防除暦に織り込んでいる。ほんのわずかな病気や虫害を100%完全に消し去るために、適量の数倍の農薬の使用が、毎年農家に指示されているのである。 これによって、消費者は二重の打撃を受ける事になる。何しろ、農薬の過剰使用に伴う農産物価格の上昇を押し付けられた挙げ句、より高い危険レベルの残留農薬にまみれた農産物をつかまされるのであるから。まさに、踏んだり蹴ったりである。 「農協の本来の姿、それは援農である」と人は言う。しかし、本当にそうであろうか?そもそも農協などというものが存在する必要があるのであろうか。世界の穀倉であるアメリカに農協があるか?そんなものはない。それでもアメリカの農家は、自分たちの力で農薬や農機具を買い、自分たちの力で作物を管理・栽培し、自分たちの力で作物を売っている。 日本の農協のように、高い農機具や過剰な量の農薬を農民に押し付け、出来た作物の多くを独占的に買い上げて流通させる農協。そんなものが本当に必要なのであろうか。 現に、ここで見てきたように、「防除暦」の作成という、農協の「本来の」お仕事の中のほんの一部を見ただけでも、その計り知れない害悪の大きさに唖然とさせられる。人々が口をそろえて言う「本来の姿」。その「本来の姿」そのものが悪の源となっているのだ。消費者はもちろんの事、農民でさえも、農協が生き延びる事によるメリットは、もはや無い。 いまや農協は、「本来の姿」などというものに戻る必要は全くない。この巨大利権組織に必要な唯一の対策、それは「速やかな解体」である。 |
[ 61] 地を這う難破船 - 人工という本来
[引用サイト]
http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20060415/1145123854
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クィアをめぐる議論を眺めて気にかかるのは、要するに、当該対談で仲正が言うような、一種の疎外論図式である。 「健全な」市民社会から排除され抑圧された存在にこそ、正統の外部にこそ、強度の楽園があり、そしてそんな異端のカオスとパッション(=情熱or受難)こそが、私達「正常な」市民社会を=正統を、オルタナティブとして外部から照射し撃つ。そのとき正負は相対化され、あるいは負の側にこそ正が宿りうる…… インド行って打ちのめされ「目覚め」て、帰国後クーラーの効いた部屋でモバイル使って「ガンジス河の生と死」「その少女の澄んだ瞳」について「エクスァイア」に発表する作家先生みたいなモンである。上記の「インド」には「イラク」を代入しても可。「ガンジス河」には「戦場と化した街」を代入。 「ブッシュに侵略される戦場の子供達の写真集」というのを「時機に合わせてメッセージとして」製作し、NHKにまで出演された池澤夏樹先生というのがいらっしゃいました。アンゲロプロスの翻訳家です。「ドナドナ」の仔牛のような眼の子供達。オリエンタリズムここに極まれりと思ったけれども。 では、ならば、もし「差別され抑圧され排除され搾取される」当事者が、西欧語を流暢に操り自ら声を上げたら? 自分達こそ、人間の本来性に忠実に生き強度を享受する勝者だと、自分達こそ「本来的でナチュラルな、正嗣としての人間」だと、言葉を取り戻した彼らが雄弁に主張したら? 正負のカードをともに喪失しあるいは廃棄した、虚数性のゼロ記号の中において、「不在」と「非在」の事実性に耐え忍び、永劫の宙吊りという「自由の刑」に粛々と服し続けるという、実践としての態度。そしてそれを支える覚悟。 ああいう、何でも耳障りよく切れてしまうマジックワードというのは、時代的効能はあっても、いまや役に立ちません。 人工性を前提として、人工性に埋め尽くされ包囲されて生きる私達の生があるいは性が、非本来的だなどと言っても、まして「本来性」なるものをジャングルの奥地まで探し回って見つけ出し、人喰い土人の割礼儀式を称揚しても、何も始まりません。 私達は人を原則として喰いませんし、ペニスの皮を原則として強制的には切り取りません。それを社会化というのです。そしてそれは、緻密に仮構された牢獄のような人工性における、事実性そのものなのです。 原則と例外と言いますが、人工の生という事実性を原則として叩き込み、そこから例外への志向も生まれるのです。メソッドを極めないことには、そこからの解放も得られない。 自由への困難な道は、本来そこから始まる。自分の不自由性を、それも人工性ゆえの不自由性を、徹底して自覚するところから。 そうそう、俗説かもしれませんが、アフリカの辺境の部族の大半では、同性愛は「非本来的」な病気らしいです。まあ深刻なHIVの問題もあるのだが、「本来性」なんてそんなもの、というか「本来性」など、ありません。妄想です。 ちなみに養老孟司が最近オルゴール状態で吹きまくっている、聞いててハラハラする危なっかしい論は「本来性のススメ」などではない。あのヒト唯物論者だから。脳のスイッチ切り換えろと言ってるだけ。「本来性」など虚構だと、むろん解剖学者も脳科学者も知っている。 人間は絶対的に文化的で文明的な存在である。それは「ことの始め」からプリセットされている。「2001年宇宙の旅」のあまりにも有名な冒頭で、キューブリックがそれこそサルでもわかるよう表象したように。そしてそれこそが人工性である。 この困難な問いに、その人間の価値観を賭金として態度表明を行う、その投企的な署名は万人の義務であるとすら、私は思う。 言い換えれば、人工性の水槽の中で、選別淘汰を通じて、よりよい水槽を構築しようという立場だ。私は自覚しているが、これはネオコン的な発想でもある。 徹底したリアリスト達が牽引するはずの、グローバライゼーションにおけるネオコン的覇権と文化経済侵略・収奪は、当事者達のあまりに宗教的=しいて言えば狂信的な、不合理なるオブセッションに裏打ちされている。 本来性とはしょせん喪われたアルカディアであり、つまりは仮構された心理主義的装置に過ぎないのならば、非本来性もまた同様の操作された概念装置であり、本来性が消去されれば、対立概念としての非本来性も、意味を果たさなくなる。 いかなる人間の性も文化的・文明的に「教育」され「社会化」された装置に過ぎず、よって性は決して社会的な文脈を逃れることはできない。すなわちア・プリオリな「自然」としての性などない。 私達にとっては「性」すらも無前提には存在し得ず、すべては人工装置に過ぎない。「心」の内部や構造すらも。 ちなみに養老さんがしつこく説いているのは、以上を前提とした「自然」としての身体論であり、だからこそあの人は「あえて」極端な脳還元論を展開したのだし、唯物論者にとっての「人間性」の最後の砦としての身体論であり、ゆえに今流行の寺門琢己的な、スピリチュアルな=唯心論的な身体論とは、全っ然、違う。 人間における「本来性」などないし、「性」を通してそれを顧現させようなどという試みは、やめたほうがいい。カルスタの言説が(疎外論である限り)政治的実践であることは知ってるが、そしてその理論的実践によって変革すべき現状が存在していることも承知だが、それでもマズいと思う。 世界を二元論化し、「こちら」と「あちら」の、此岸と彼岸の落差を広げることが多様性の肯定に繋がり、そしてその落差の「幅」こそが、多様性を保障するのだと思っているとしたら、まして「あちら」にこそ「本質」があると謳い煽っているとしたら、私はとうてい賛同できない。 「こちら」の人間に「あちら」を覗かせ、「あちら」に跳躍させる契機を開発することが、よき帰結を招き得ると、本当に思うのか?「あちら」にも、「こちら」と同じように、何もないのに? 「本来性」などとホザくのは、加速度的に急進化する不可逆的な歴史に対する拒絶反応、「人間の人間性」などという、かつてあったはずのアルカディア(あるかそんなモノ)をこの期に及んで夢想する輩どもだ。 そしてまさしくヘーゲル的な理性の狡知、彼らのヒューマンで果敢な社会学的実践は、さらなる人間性の解体、否、「人間の解体」へと、私達を雪崩を打って突き進ませ、世界の駒を躍進させたのだった。 人工的であることこそが人間的である。その宿命的なパラドックスに耐え得る矜持を失ったとき、もはや状況は、なんらパラドキシカルでなくなる……! 崩壊の後に残るのは、もはや自動機械と化し、自己生成を際限なく続ける人工化(アーキテクチャ)の極限と徹底のみ。 徹底的に複雑化したシステムは、宇宙の闇のように私達を覆い隠して、結局誰にも何も見えなくさせる。 そしてそんな不透明な暗闇の中で、私達はもう一度類人猿に、あるいは胎児に戻って、盲目的な自己反復と自己消尽を、際限なく続けていく…… そう、まさに、冒頭と結末が、すなわち起点と終点が円環する、「2001年宇宙の旅」の、あのラストシーン=オープニングシーンのように。 我々はこんな世界に、こんな自分達とともに、あのような歴史を抱いて、遥か遠くからやって来てしまった。 流れ落ちる砂のような、あるいは降り注ぐ雨粒のような、人類史の演算の帰結であり、それはすなわち、ゼロ記号だ。もうここから、何も進むことも動くことも、いかなる進捗も、ない。ただ傾きだけがある。すべてが一点の奈落に転がり落ちるような、構造的なおぞましい傾きが。 三島由紀夫が「豊饒の海」で綴った、阿頼耶識の流れとは、そして結尾の「記憶もなければ、何もないところ」とは、このことで、この場所だろうかと、ふと思う。 クィアについての見解、えらく迂遠だった。しかし人は天空への階梯を飛翔し、そしてまた鈍重な地上へと戻ってこなければならない=もはやそんな「動線」にしか、あるいは「人間」の「精神」の立ち上がる余地などないと、私は考えている。 「異端こそ正統を撃つオルタナティブである」という発想を、政治的効果はわかるが、やめてくれと私は言っている。 これは正統の肩を持っているのではない。「正統と異端」などという二元論に意味はない、そんなものを思考のゲームでならともかく、現実社会で真顔で適用するのをやめてくれと言っている。 いまさらこんなこと言いたくもないが、あらゆる概念装置は便宜的な道具であり、それを規定し維持し得るのは歴史的な事実性にすぎない。 オルタナティブを規定する事実性もまた、言説史の文脈とその差異において、ニッチとして存在するのであって、俗説レベルで上のようなことを吹かれても困る。 そもそも「健全」であることや「正常」であることが、当該理念や価値集団の正統性を担保するわけがない。「健全」だの「正常」だの、頼むから心情言語はやめてくれ。「オルタナティブ」の側もだが。 ついでに言えば「享楽と快楽の性の戦争」とは、ヘテロとクィアの対立のことではない、ひとりの人間の内部で発生する弁証法的対立のことである。 それじゃ二元論じゃないかと思われるだろうが、以上の議論でおわかりの通り、唯物論者の私はむろん享楽も快楽も実在すると思ってない。概念装置です。 そのような、情緒と行動における機械化の一環としての、「性」もまた部分的=パーツ的なオプションでしかない。 |