| このページは 04月のキャッシュ情報です。 |
われわれとは?
[ 218] 総論 : 「より外なるわれわれ」のために
[引用サイト]
http://hac.cside.com/manner/souron/6setu.html
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いま、空港ロビーにわたくしども30名が集まっているものとする。まだ、1〜2名やって来ていない。で、その1〜2名を待っているところである。 けれども、よく気が付いてみると、わたくしどもが集まっている場所は、このロビーの中で、人々が通路として使っているところであった。 わたくしどもの集まりがじゃまになるが、彼らはわたくしどもに迷惑をかけてはならないと思うのであろう。わたくしどものまわりをぐるりと遠回りして進んで行く。 もし、これが海外の空港ロビーであれば、その国の人たちは、たとえ、集まっていたとしても、目敏くどこが通路であるかを読み取るものである。そうして、自分たちの固まりを、その通路にかからないように気を付けているものである。 この点、日本人の作法は、個人対個人としてはよくできていても、自分たちの集団が、その外の人たちに与える迷惑について考える力に弱い。 ある日、わたくしは、アメリカのあるホテルを見学する日本人団体の一員として、そのホテルの裏方の廊下に立っていた。 日本人の通例として、こういうとき、廊下の真ん中を開けておくことを知らない。で、その廊下に入ってきたそのホテルの一人の従業員が、われわれの間を通り抜けようとしても、われわれは一向に廊下の真ん中を開けなかった。 それだけでない。「こちらは、お前のホテルの支配人の客なんだ。見ろ。お前のところの支配人も、ここにいるじゃないか」と言わんばかりの目付きをして、いま入ってきた従業員を眺めていた。 このとき、支配人は説明をやめて、われわれに対し、丁寧に、いま入ってきた従業員を通してやってほしいといった素振りをした。 が、われわれは、この支配人の素振りの意味を理解しかねていた。支配人は、われわれの中に割って入ると、その従業員のために、自分の身をもって通路を作りだした。その従業員は、小声で、その支配人に、「サンキュー」と言って通り抜けて行ったが、われわれを軽蔑するようなまなざしで、一瞬、見すえていった。 「きょうのうしろからきた従業員のヤツ、日本人をバカにしやがった。ロビーやレストランでは丁寧にしても、裏方ではああだ。それにしても、あの支配人は自分のところの部下に、あれほど、丁寧にしなければやっていけないのかなあ。われわれという客を押し分けやがって、自分のところの従業員に道を作ってやったぜ。これがアメリカ社会なのかなあ。それとも、あのホテルは労働組合が強いのかなあ。それとも、あの支配人までが、実は、われわれ日本人をバカにしていたのかな」 この支配人は、われわれという客が、国際常識として、通路を常に開けておくということを知らなかったから、臨時に交通巡査になったまでのことである。 作法は、確かに、まず、一人対一人のものである。けれども、こちらが集団となったとき、こちらの集団の外の人たちに迷惑をかけないため、常に気を配っていることを、より大切と考えたい。 このとき、日本では、一名の集団統率者がいて、わが集団全体の集団外に対する迷惑に気を使うことについては、よくできる。 が、この集団内の一人一人が自分たちの集団の外に与える影響について気を配るところまでは、進歩していない。 |
[ 219] われわれ民衆はバカである
[引用サイト]
http://members.jcom.home.ne.jp/lila/newpage16.html
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縄文時代に続く弥生時代になると暴力的国家権力が誕生し、われわれ民衆の精神的、肉体的生活は悲惨なものとなった。自分で得た食料や、生産した食料、また自分で作った生活用品、蓄えようとした財産は、王が軍隊という暴力を背景にそれらを奪取するようになっていった。 国家の始まりは、暴力的権力を持った少数の者が、多数の者から奪うという形だ。初期の軍事的権力は、集団で武装した少数の者が、武装していない、あるいは武装できない多数の者から奪うという形で、山賊や海賊と全く同じだった。 暴力とは、自分より弱い者をターゲットにするという、陰湿な精神的なものである。自分より強そうな者に立ち向かうのは、暴力ではない。弱そうな者を探し、自分より強そうな者には決して刃向かわないという臆病の裏返しが暴力である。 そうやって、陰湿な集団に打ちのめされている間に、われわれ民衆は権力に「ハイハイ」と従うだけの奴隷根性をもってしまった。 それ以前は・・・この日本列島に住む人々の間では、宗教や、村の長、長老などの指導者は存在しただろうが、暴力をもって民衆から奪い取るということは行われなかった。 近代化を経て、現代に至るや、社会文化はその主導権を再び民衆に戻し始めてきているように感じる。それは民主主義の台頭ということだが・・・まだ発達の始めの段階ではあるが・・・、ようやくわれわれはもとの民衆を取り戻しつつある。時代は二千年前に戻りつつある。いや、二千年前に進んで来た。 喜ばしいことである。王の悪口を言っただけで、殺されたりはしなくなった。民衆も王と同じ人間であることを文明が認識し始めた。 わが国の場合、かつては神国日本というスタイルに合わせて軍備増強を行い、湾岸戦争でのイラクのように、アメリカに徹底的に叩きのめされたが、それまで民衆のほとんどは、暴力的手段に頼った国家に盲目的に従っていた。 ところが、第二次世界大戦敗北によって今までのスタイルが消滅すると、今度は豹変して、今までとは百八十度違う考え方をあっさりと持つようになった。 そして、現在は経済大国、GNP大国の大量消費の論理の中、何事も貨幣換算し、膨大な資源の使い捨てを平然と行うようになっている・・・たとえ、このライフスタイルが地球環境の疲弊破壊に繋がることを知っていてもである。 記憶や条件反射の実験で使われる、あの下等なブラナリアのように、頭をちょん切られようが、尻尾を切られようが、光や餌にまっしぐらだ。 考えてみれば、われわれは、民衆としては、ブラナリアとそうは違わない。たいしたことのない商品でも、テレビでばんばん宣伝をやられると、もう我を忘れてそれを競って買い求める。たいしたことのない無能な人間でも、しょっちゅうテレビや雑誌を賑わせば、もうあいつはひとかどの人物だなんて思ってしまう。群集心理というあまりありがたくない響きを持つ言葉があるが、まさにその通りである。 現代はしかし、民衆がバカで愚鈍であることは誰でも知っていながら、納得はしないことになっている。不思議なことに、われわれ民衆自身は自分をバカだと感じていない。 それはもう救いようがないほどのバカだ。バカなのにバカを意識しない。だから、バカだとも言えるが・・・。 古代は防人に駆り出され、近代は太平洋戦争に駆り出され、、役人の怠け癖と無駄な出費のための重税に喘ぎ、水俣病やエイズにされ、使い捨て文明にすぐに馴染んでしまい、チェルノブイリ原子力発電所や茨城の原子力処理施設の大事故があっても、数ヶ月もすれば、もう忘れてしまって平然としている。また、同情心など皆無だ。自分の回りのことにしか気を使わない。自分の乗用車の中をきれいに保っておきたいために、ゴミは車から投げ捨てる。外国の森林を禿げ山にして動植物が住めないようにしたり、山々の動植物を追い出し、殺して作ったゴルフ場を沢山作ったり、バカなことばかりやっている。 こうしたことは、結果的に自分の首を絞めていることなのに、そんなこと全然お構いなし!今がよければ、それでいい。刹那的、無思慮なバカ(思慮深いバカも当然だが存在する。つまり考えたり喋ったりはするのだが、行動は無思慮なバカと結果は同じ)、それが現代のわれわれ民衆の姿だ。反省なんてない。ただ、漫然と働いて貨幣を集め、それで一時の快を得るだけで満足できる哀れな精神の持ち主である。 それでいて、自分が権力者などになれるわけもないのに、歴史上の人物や権力を持つ人間に自分を重ね合わせて憧憬の念を抱いたりする。 かつてのソ連だって、ゴルバチョフという権力者があのような政策を取らなければ、共産主義の崩壊はこんなに早くなかっただろう。未だに、北朝鮮は民衆にとって真っ暗な世界のようである。ソ連の体制を変えたのは、民衆の力ではない。そもそもロシア帝国から、ソ連に変わったことだって、民衆の力だとは言い難い。先鞭をつけたのはマルクス・エンゲルスであり、レーニンだった。そして、今回もまた民衆ではなく、権力者やそのブレーンの力だった。 民衆は何もできない。できることは尻馬に乗るだけ。あとは、一時の快さえ与えられれば、それで満足してしまうだけの存在である。 リーラー的世界観では、ものごとをありのままに観るので、われわれ民衆を政治的に観ると、バカ以外の何者でもない。それはどうしようもない本当のことだ。 それもある程度は仕方がない。かつての民衆の存在価値は、王や国家権力のやりたい放題のバカ騒ぎの駒にすぎず、存在価値の希薄な泥で作られたようなオモチャにすぎなかった。泥のオモチャを失っても、王や権力にとっては蚊に刺されたほどにも感じない。 右向け!と言われれば右、左向け!と言われれば左・・・。悲しい存在だった。そして、民衆の中の少数の人々が国家や権力に反対しても、そんな力など一ひねりで潰されてきた。 アメリカ合衆国では、ベトナム戦争の際、反戦の気持ちが全米に広がったが、イラクとの戦いでは、そんなこともう忘れて、ブッシュ大統領を賛美した。もちろん、ここではイラクと戦うことがどういうことか、などということを論じているのではない。 考えてみれば、ソ連の共産主義の崩壊という現象からみれば、ロシア革命もレーニンという権力指向者に、民衆がだまされただけだったのかもしれない。「いや、違う!当時の皇帝は・・・当時の労働者は・・・」などと言っても後の祭りだ。 結果的には、共産党という王政を確固たるものにしただけのことで、歴代の共産党第一書記が、皇帝の後がまに座っただけのことだった。 絵の具の沢山の色を全部混ぜると、ネズミ色のような汚い色になってしまうように、個々人がどんなに賢くても、民衆になってしまうとバカになってしまう。 歴史時代以来、ずっと烏合の衆にすぎず、民衆として賢いことなんてなかった。強い者にへこへこして、弱い者には威張り散らし、汚くて自分勝手で、まさしく勝手で情けない生き物だ。それはもう、悲しいくらいだ。 しかし・・・個々の色合いは充分個性的で美しい。考えてみれば、偉大な芸術家も思想家も、科学者もほとんどが民衆から生まれているわけである。また、われわれも結構頑張って、文化や芸術を支えている。民衆の中には、何でこの人はこんな平凡な生活をしているのだろう、本当はとんでもなく素晴らしい人なんじゃないか、と思われる人も多い。 もしかすると、ゆっくりと美しく宇宙の法則に則った、リーラー的な場面では、民衆は個を生かすことのできる、リーラー的な文化を築きあげられるのではないだろうか。 「そして、夢みるようにその日、その日を送って行ったのであった」であろう縄文時代の人々はまさしく、そんな個の美しい色合いを社会が認めていたのだろう。 個の色合いがなければ、人々がリーラー的に生きることはできない。みんなが同じ服、同じファッション、同じ考え、同じ食べ物・・・これじゃあ、テレビや雑誌が操縦するロボットだ。 何も芸術家でなくたって、素晴らしい個性を持った人はたくさんいる。われわれは、もともと違った色合いの感性を持っている方が自然だ。カラスはみんな真っ黒だが、ゴミの漁り方や行動を見ていると、それぞれ違う。イヌやネコも、洋服でもないのに、よくみると、それぞれがみんな違う毛皮だ。 全部の色を混ぜてしまうような現代の文化は、個々の色合いを充分発揮できない。朝の駅の男たちは、まるで申し合わせたように、全部の色を混ぜてできたような色の服を着ている。また、すぐ地べたにしゃがんでしまう、ひ弱な若者たちも一様に同じような格好をし、その感性も個性も大人と同じように、回りに合わせようとしている。 大人もこどもも、もっと個性的であって欲しい。そうでないと、みんなテレビや雑誌に操縦されるロボットになってしまう。ロボットは命令されるだけ、与えられたデータだけの範囲でしか行動ができない。 昔の田植えは、たんぼ一面にコシヒカリを、なんていうことはなかった。時期をずらしたり、違う品種のものを植えていた。また、イネだけでなく、同時にヒエやアワも作っていた。全部が同じ品種で同じ時期に成長すると、たった一回の台風で全滅、ということになるが、品種や成長の時期が違うと、爆発的な豊作は望めないが、その代わり全滅ということがない。 台風がきても、こちらでは既に穂が実っているのに、あちらではまだ青々としているという状況だと、穂をつけたイネはひとたまりもないが、穂を付けていないイネは水が引けば 全部が同じ、ということは危機に弱い。いろいろな形で、いろいろなものがあった方が危機に際して強い。リスクの分散ということである。バブル崩壊後の大企業のあっけない崩壊は、毎年豊作がくると信じる脆弱な組織にあったと言えるだろう。 本当に強いものは、いろいろなことに対処でき、沢山の色を備えていなければならない。画一を求める企業は、画一的なアイデアしか生み出せない。組織の画一化、社員の画一化は、結局一回の台風で根こそぎ倒れてしまうことになりかねない。これからの企業は、社員の個々の感性を引き出す努力が必要となってくるだろう。 現代のわが国の色は・・・つまりそれが自由で平等であるかのような錯覚のもとに、絵の具を全部混ぜてしまった。 色は混ぜすぎてはいけない。特にわれわれ民衆は個々の色合いがはっきり分かるような状態でなければ、リーラーは機能しない。 「イエス・ノー」の論理だけだと、クルクル、クルクル早い結論が沢山出過ぎてしまうから、結局は混ざってしまう。 われわれ民衆が個々の色合いを鮮明に、美しく保つためには、「イエス・ノー」の他に、リーラーという判断が必要である。 バケツの中の水を激しくかき混ぜて、絵の具を流してみると、あっという間に全部混ざって汚くなるが、ゆっくりと水を回転させれば、水面には個々の色がすーっときれいに伸びる。 これからの世界はゆっくりが肝要だ。われわれ民衆のための政治経済はゆっくりが向いている。それこそ民主主義だ。少数の権力者がものを決めるのなら、それは早いが、沢山の民衆がものを決めるのは、やはり沢山の時間が必要である。 喜ばしいことに、第二次世界大戦の敗北後、この国では直接的な戦争がなかった。そのためわれわれ民衆の環境は、それ以前に比べてすこぶる良くなっている。 最大、最悪のものは戦争だ。戦争という暴力がないということが、われわれ民衆の色合いを鮮明にしてくれたと言ってもいいだろう。 縄文時代は、大陸との関係、交通からも戦争を行っていても不思議ではなかった。それなのに、一万年ものながきに渡って、戦争がなかった。おそらく、彼らの個々の色合いは、鮮明でリーラー的だったことだろう。 |
[ 220] 28
[引用サイト]
http://www.jca.apc.org/beheiren/saikin28Furukawa-WareWarenoBeheiren.htm
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つい最近、埼玉県立浦和高等学校の一人の学生が「ベ平連」をテーマにして調べたことをレポートにまとめたものです。これは、「総合学習」授業の自由課題として取り上げたもので、埼玉大学共生社会研究センターに来てベ平連資料を読み、合わせてHP、文献などを参考にして書いたそうです。執筆者、古川昂宗さんの了解を得て、ここに掲載いたします。 べ平連(ベトナムに平和を!市民連合)は、1965年2月のアメリカによる北ベトナム爆撃開始を受け、4月に始まったベトナム反戦の市民運動である。声なき声の会の高畠通敏が鶴見俊輔に声をかけ、さらに小田実に話を持ちかけ、小田を代表として運動は始まる。実際のスタートとなる4月24日のデモの際のビラの文面は、しばしば引用されているが、べ平連の運動の雰囲気を伝えるものとして重要であるので、ここで引用しておきたい。 ふつうの市民ということは、会社員がいて、小学校の先生がいて、大工さんがいて、おかみさんがいて、新聞記者がいて、花屋さんがいて、小説を書く男がいて、英語を勉強している少年がいて、つまり、このパンフレットを読むあなた自身がいて、その私たちが言いたいことはただ一つ、「ベトナムに平和を!」 政治的主張をする場を持たない人々にべ平連は自分の威力を主張する場を開いた。街道を行くOLやサラリーマン、主婦や高校生、デモを目にし、ビラを手にとる「あなた」に呼び掛け、「ベトナムに平和を」という思いを共有する人々に、その思いを行動によって示していく場を提供したのである。 ここにべ平連の性格がよく出ている。組織に属さず、いても立ってもいられない気持ちを持ちながら、その気持ちを表現する場、方法を持たない人たちが政治に対して自らの意思表示をする場をつくろうとしたのである。こうしてべ平連は生まれてきたのである。 アメリカによる北爆は悲惨な事件として人びとを刺激し、かわいそう、ひどすぎる、という気分は多くの人に共有されていた。そこにべ平連が「誰でも入れる」という行動の場を提供し、運動は広がっていったのである。 ベトナム戦争に対して社会的関心は高く、この悲惨な戦争に対して黙っていていいのかと思いながら、行動に踏みだす勇気と行動する場を持たず動きだせずにいる、そういう人びとにべ平連は「自分なりの行動を」呼びかけ、カンパ活動や老人から子供まで入れるデモ等、参加しやすい形の行動を提起し、行動する場を開いたのである。 「やらなければならない」と思うのは、「沈黙は同意につながる」と考えるからであり、あるいはベトナム戦争の悲惨さに感情的に「とにかく何もしないでいるのがたまらなく苦痛」であると感じるからである。自分自身を状況から切り離して考えず、何もせずにいることは何もしないことによって、現状を容認し加担することにつながると考える。そして、その加担から自分を切り離していくために何かをしなければならないと考えるのである。 べ平連の大きな特徴は「組織ではなく運動体であること」を強調し、規約も会員登録もなかった。「ベトナムに平和を!」、「ベトナムはベトナム人の手に」、「日本政府はベトナム戦争に加担するな」ということを主張し、行動するとき、その時その一人一人がべ平連なのだった。そこでは個人の自発性が大きな意味を持つ。ベトナム戦争に反対して自発的に立ち上がった個人個人がつながっていくことでべ平連は成り立っていたのであり、反戦運動に自発的に立ち上がれるだけの強さを持った人ひとの運動だったのである。 さて、その個人個人はどのようにつながっていったのか。小田実は人びとの集まりを「われら」という言葉ではなく「われ=われ」という言葉によって表現する。個人が集約されて一つの集団となり、外に対して切り離され、内に対しては集団に個人が埋もれてしまうような集団のあり方ではなく、あくまで一人一人の人間がいて個性が尊重されながら、「われ=われ=われ=…」というように無限につながっていく人と人の結びつき方がイメージされている。それがべ平連のめざした関係のあり方であり、その個人と個人を結びつける力は、ベトナム戦争に反対する意思にあった。 差異を消し去り同質化を図るのでもなく、差異ばかりを強調して対立しあうのでもない。一人一人の個性を認め、自分が一人であるという孤独感に耐えながら、そういう一人一人がつながれる点において結びついたのが、「われ=われ」のつながりだったのである。ベトナム反戦をより強く訴えていくにはともに行動をしていく人を増やしていく必要があった。その必要にせまられて止むを得ず行動を共にするという側面もあるだろう。しかしべ平連のしようとした人と人の結びつき方はそのような消極的側面以上に、個人個人が互いの個性を認めあいながら、一つの点によって結びついていく方法として評価できるものではないか。 個人と個人の結びつきによって運動を実際に行っていく際のルールとして、べ平連には「言い出しベエの原則」というものがあった。 (1)言い出した人間がする、(2)人のやることにとやかく文句を言わない(そんなひまがあったら、自分で何かしろ)(3)好きなことは何でもやれ。 自分がアイデアを出したときは、その行動のなかではその人がリーダーシップをとる。自分が言い出しておきながら他人にやらせるということをせず、また指導者がいて誰かのアイデアを採って運動を指導するということもしない。指導・被指導の関係が固定化されていくと、もともとは横のつながりであったとしても、命令・服従の縦の関係に転化し、組織のピラミッド化を招く危険性をもっている。べ平連には自分がいつも落し穴を持っていること、危険性をのぞききれないことを意識しつつ、何らかの仕組みによってその危険性をできるだけ小さくしていこうという姿勢があり、この一つ目の原則もピラミッド化の危険性を小さくしていくための役割を持っていたのではないか。思想、信条のさまざまな人たちが、指導・被指導という関係を固定化させず、行動を押し進めていくための原理が運動のなかで作り出されたのである。 べ平連では各人の個性を尊重し、集団があって個人があるのではなく、ベトナム戦争に反対する個人、一人一人がいて、その一人一人がベトナム反戦のために結びつくことで成り立っていた。そして、あくまでベトナム反戦の行動を進めていくことを根底に置きながら、それまでにあったピラミッド型の組織のあり方に対して、はっきりと違った人と人の結びつき方をつくりだそうとしていたのである。 共同行動は、1968年の6月に3月のジョンソン大統領声明を受け、ベトナム戦争即時全面中止と佐藤政府が責任をとることを要求するために始まる。 この共同行動は6月、10月、4月、と回を重ねられていったが、70年に入りセクトの対立が強まる中で、ついに内ゲバを防ぎきれなくなったのである。70年の4・28沖縄デーの同行動において、革マル派の参加を他党派が実力で阻止するという事態に、べ平連他市民運動団体が主催団体を降りるということが起きる。しかし、その後も市民が諸党派の間に立って内ゲバを防ごうという試みは行なわれている。内ゲバを防ぐために市民は消耗し、共同行動はだんだん難しさを増していったが、68年に行なわれた最初の6月行動は「美しく感動的な集会とデモであった」と高揚感と解放感をもって語られる、多様性が互いに尊重されつつ調和をもった共同行動が実現されている。状況のなかで制約を受けながらも、多くの人がつながる新しい関係のあり方の試みとして、この共同行動はあるのではないだろうか。 べ平連が目指した関係のあり方は、ベトナム反戦のための方法であったと同時に、ベトナム反戦が政治権力が生み出す抑圧に反対することにつながっていったことからすれば、権力に対する対案としての関係という意味を持っていたとも言える。 既存のピラミッド型の人間関係、価値体系から離れた所より出発し、水平な人間関係の下で運動を進めてきたところに、べ平連の独自性はあるのだろう。しかし、それでもなお内ゲバを防ぎきれなかったのは運動という物がいかに難しいかということをあらわしているのではないだろうか。 60年代の日本において、経済の成長による賃金の上昇と量産量販に伴って大衆消費時代が到来し、マイホーム主義と呼ばれる私生活中心主義が生まれていった。人びとの関心は、マイカーを持ち、多くの物に囲まれたアメリカ的豊かな生活へと向けられていった。それは内向きの関心であり、社会に対して無関心になっていく傾向が指摘される。べ平連で行動していった人びとは、反戦運動によって社会と積極的に接点を持っていったわけだが、組織に縛られることを嫌い、「私」に重心を置いていた点で、この私生活中心主義の傾向と実はほとんど同じなのではないか。「公」によって干渉されることを拒み、「公」に対して「私」を確立しようという姿勢がまた、逆に積極的に「公」に関わっていくことにもなった。現代の社会的無関心と言われるものとの違いはそこにあるのかもしれない。 (蛇足) 最初、このレポートを拝見したとき、このベ平連は立派過ぎる、と感じました。それで、レポートのコピーを送ってくださった埼玉大学共生社会研究センターの藤林泰さんに、「ベ平連の理念は捉えていると思いますが、これは理想型であって、現実はそれほどうまくはゆきません。立派すぎます。このとおりなら、あまり苦労することもなかったでしょう。どんな集団にも、建前はありました。しかし、建前と現実との関係で言えば、ベ平連のメンバーは、建前からたえず外れてゆく現実を是認せず、常にそれを建前に近づけようとする意識的努力を忘れなかった、という点が他と違ったのだと思います」という感想を、送りました。 それを見た高校の先生から、「……当初はムーブメントの難しさ(失敗の要因)を生徒に考えさせたいと思っていました。しかし、ムーブメントに携わった経験のない生徒たちに、それを考えさせるのはマイナスの影響の方が大きいような気がします。大人がそれを強調しすぎると、生徒たちはこざかしい評論家になってしまい、実践への意欲を失ってしまうでしょう。むしろ、理想を考えさせることで、実践への動機付けになるよう導いた方が教育的だと思っています。運動の難しさや挫折は、生徒たちが実際に運動に関わりながら、みずから肌で感じていってもらいたいと思っています」というご意見を頂きました。 これに同意いたします。その後、再度、「運動論について考えるとき、「若者への絶望」「周囲への絶望」はついて回るのですが、それは若者への期待が高すぎるからだと思います。最初から期待しないでいると、わずかな萌芽に遭遇するだけで、ポジティブになれます。今回、生徒たちのささやかな文章に触れ、私はちょっとだけ彼らの将来に期待を持つようになりました。(ちょっとだけですけどね。)」というご意見もいただきました。 蛇足ながら、若い人のレポートをめぐる周囲の大人たちの意見もご紹介しました。他の方のご意見もぜひ「談話室」にどうぞ。(吉川勇一) |
[ 221] 小さい存在の「わたし」と「われわれ」
[引用サイト]
http://www.wako.ac.jp/souken/touzai95/tz9504.html
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ご紹介いただきました経営学科の岡本でございます。ご案内のパンフレットに書きましたように、きょうのテーマは〃世界のなかの「わたし」と「われわれ」〃という大きなテーマですから、私にとりましては、大平洋の真ん中に投げ飛ばされまして、そして、大平洋は広いから存分に泳いでみろというふうに言われているくらい、非常に大きな難題です。 その中で強いて〃世界のなかの「わたし」と「われわれ」〃というふうに言うとするならば、私にとっては多くの国々でマーケティングという研究をやっている方々がたくさんいる中で、そういう研究者の一人になるのかなというのが実感です。 マーケティングの研究活動のために、一九八○年に和光大学の学外研修員ということでヨーロッパとアメリカに行かせていただきました。そのときに私はアジアの一員なんだなということを強く感じてまいりました。具体的に言いますと、アメリカのワシントン州シアトル(現地の人はシアローと発音します)にワシントン大学という大学があります。この大学は州立大学としてシアトルで一番大きな大学です。そこで数カ月を過ごしたわけです。その際、教員の食堂には行かないで、学食に食事に行きました。学生と一緒に食べるほうが気が楽だったからです。そのときにアジア人や黒人の人たちは私のそばに席があいていると気軽に寄ってきて、比較的違和感なく食事をしていました。白人の人たちは席が空いていても座りませんでした。そうした体験から私は世界の中の一人というよりは、特にアジアの一員だなというようなことを強く感じて帰ってきました。こんなことが和光大学から派遺していただいた学外研修のときの感想のひとつでした。 そして、一九九○年、ちょうど十年後になりますけれども、そのころから私は中国とか香港などに出かける機会がふえてまいりました。マーケティングの勉強を通して、中国とか香港といった地域の人たちとも接する機会がふえてきたわけです。 静岡県の熱海で小さな八百屋さんから出発しまして、今では世界の一流企業に成長したヤオハンという企業があります。日本では知っている人は少ないのですが、外国へ行きますと非常によく知られている企業です。これは流通業からスタートした企業です。私はこの企業に比較的早くから関心を持っておりまして、この企業について研究をしています。 この企業は流通業が主体なんですが、今は世界的な経営戦略を展開しており、特に最近では東南アジアとか、中国に親近感を持ち、他の企業と比較して早くから中国に進出していった流通業の一つです。もちろん中国への進出、あるいは東南アジアにしましても、メーカー(製造業)は早くから進出しているわけですが、流通業の進出ということになると、生産物をつくったり、あるいは外貨を稼ぐということにあまりならないものですから、外国としては流通業を参入させたがりません。その理由はその国にとって外貨の獲得には貢献しませんから、なるべく流通業の参入は排除しようということになるわけです。けれども、今は東南アジアも、それから中国も、それを開放するようになりました。ただ、NIES諸国で韓国はまだ流通業に外国の企業の参入をほとんど認めていません。韓国よりも、その周辺の国々の方が開放しております。 話はまたヤオハンに戻りますが、この企業は一つの経営哲学を持っています。実は「生長の家」という宗教を企業理念としています。その宗教には、「生命の実相哲学」というのがありまして、その理念を経営哲学に取り入れ、そうしてその哲学を現地の人々に対しても役に立たせようとしています。そして中国に対しては、特に中国の恩に報いたい、中国のために尽くしたいという、そういう精神で臨んでいます。中国の恩に報いたいというのはどういうことかというと、第二次世界大戦のときに日本が随分と中国に対して迷惑をかけてきた。それにもかかわらず戦争が終わってから中国は日本に対して賠償請求を一つもしなかった。このことが日本の戦後の経済成長にとって大変に有益であった。ドイツは二つに分断されたし、そしてまた朝鮮も二つに分断された。日本も北海道は実は半分に割られるところだったんだけれども、難を逃れたわけです。それに対して、特に中国は日本に対して賠償請求をしなかった。これについて生長の家の谷口雅春氏は、中国に恩返しをしなくてはならないと言っているんだそうであります。私は生長の家の信者でも何でもありませんけれども、「生長の家」の哲学を実践しているというのがこの企業(ヤオハン)の特徴であります。 そこで、私のゼミに、何かアジアやアジアの人たちのために役に立てるようなことはないのかなというようなことを思っている者が何人かいます。そういう意味で、アジアのために貢献したいと思っている国際流通グループ、ヤオハンについての研究は、私や、私のゼミの何人かの者にとってはとてもいい研究材料になっているというわけです。 話はここで中国に進出している別の企業の話になります。昨年の三月、経済学部の海外派遣の援助といったものもありまして、私のゼミの学生何人かと、中国の深●と、それから香港にまいりました。深●というのは中国で一番最初に経済特区をやって成功したところですけれども、そこは香港から地続きになっていて、香港の九竜島の駅を出て、一時間ぐらいでしょうか、電車に乗りますと、中国本土に入ることになります。そこで中国への入国手続きをして深●に入るわけです。 そこに実は日本の企業のサンヨー電機が、一九八三年という非常に早い時期からこの深●の蛇口というところに進出しています。サンヨー電機の本社は大阪ですが、苦労をしながら、現在深●で成功している企業というわけです。中国の経済開放が始まりましたのは一九七九年ですから、その四年後には早くもサンヨー電機は深●に進出していたということで、日本の企業ではかなり代表的な企業になると思います。 そこの会社にまいりまして、学生ともども、まず一緒に工場を見学させてもらい、生産工程を見せていただきました。学生の中には特に一人、中国から来ていた研究生がいたので、通訳とかそういった面でだいぶ活躍してくれました。工場では若い女子職員が一生懸命働いている姿を見て、日本でも昔、昭和三十年代に就職列車に揺られて大阪や東京に私たちと同じ世代の人たちが来たわけですけれども、そのころの状態によく似ているのかなと思って、随分と感動を覚えました。 工場見学をして、その後、会議室で質疑応答を交わしました。いろんな質問に答えていただき、私たちの知らなかったこととか、あるいはまた日本で経験することのできなかったことを体験することができました。そして私たちは中国に対する親近感をさらに強くしていった、そういう経験をしました。 以上、ゼミの学生ともども、「わたし」並びに「わたしたち」はこういうことをやっているということの一つを紹介させていただきました。 それから、その研修の際に深●から香港にまた戻りまして、先ほど申しました香港のヤオハンの本部を訪れました。そこでヤオハンの世界戦略、特にこの企業の中国への取り組みについて、聞き取り調査をして、この企業とこの地域に対する理解を深めました。 つぎに、日本の企業が現地に進出していて、そこでどんな貢献やら、あるいは逆に軋轢を生ぜさせたり、また迷惑をかけているのか、それについて考える必要があると思います。貢献している面もあれば、また逆に迷惑をかけている面もあるわけです。それについて一般的に言われていることは、流通業も含めて現地への貢献ということになると、一般的には日本の枝術を現地へ移転して枝術水準を向上させるとか、あるいは現地の資源を活用するとか、雇用を促進する、それを通じて所得を向上させる、そしてまた生活水準の向上に役立つ、こういったことが一般的にいわれていることかと思います。 流通業について言えば、流通の近代化のために、流通のノウハウを教えるといいますか、提供するという、そういったことが考えられます。現地はこの面が大変おくれています。 そのひとつに、先進国のような卸売業が存在していないことがあげられます。日本のように二次卸、三次卸というように流通過程に卸売機関が介在しすぎると、余計な流通費がかかることになりますが、適切な機能を備えた適切な数の卸売であるならば、介在する方がはるかに社会的流通費を削減させることができるわけです。それは、十人の小売商と十人の生産者がそれぞれ取り引きすると百回の取引になる、ところが、その間に卸売商が一人介在して、それぞれ十人の生産者・小売商と取引すれば、取引回数は二十回で済み卸売が介在することによって、スムーズな取引と経費を節滅することができるわけです。そのためにヤオハンは、シンガポールや中国の北京や上梅にIMM(International Merchandise Mart)という、国際卸売センターを建設して世界中から商品を調達しようとしているわけです。 また東南アジアや中国は商品の物流が非常に未熟です。もっとわかりやすくいうと、商品を運搬する輸送網のインフラが遅れているわけです。たとえば、輸入品を香港から北京まで運ぼうとすると、汽車で三週問もかかるため、商品がひとたび品切れになると、その補充にはたいへん時間がかかる。また、輸送の過程で商品の二十パーセントくらいはなくなるともいわれています。これは倫理・道徳の問題ですが、物流のためのインフラ整備と、倫理・道徳への教育も必要なわけです。 このほか、ソフトな面では流通の近代化のために、店舗での品揃えや、陳列方法、接客態度、衛生的な取引、サービス精神、最近のPOS(Point of Sales)の手法などのノウハウを提供するといったことなどがあげられます。 それと同時に日本文化の移転ということも考えられます。日本の寿司だとか、最近では外国人の間でもそういったものを好む人がだんだんふえてきていますが、それは一つの文化でもあるわけですね。商品を通じて文化を移転しているというようなことが言われています。それからショッピングの楽しみなどを定着させていく。そんなことが役立っていることかなと思います。 ところが逆に批判されていることはどうかというと、日本の企業が進出していきますから、そうすると現地の人件費がつり上がってしまうということが言われます。それと同時に、日本型の店舗がふえていくと、現地の出店費用がつり上がってしまって、現地の人がなかなか店を出せないということがあります。さらに、日本製品を輸入さぜると現地の製品を圧迫してしまうということがあります。それから、日本のデパートがやっている返品制度とか、派遣店員とか、そういう悪い慣行を実際に台湾などへ行ってやっているわけです。そういったことが批判されているわけです。 それで、どういう企業がどれほどよその国に行っているかという、資料として、「アジアで稼ぐ日系大型店」という新聞記事と、「日系デパート、スーパーの進出状況」を知るために、香港に進出した日本のデパートとスーパーの状況を資料として掲げました。 こうした資料から、非常に多くの企業がアジアに進出し、ある面では貢献し、またある面では迷惑をかけていることがわかると思います。それでは、おまえたちが何か貢献できることや研究できることがあるのか、と言われれば、考えていることがないでもありません。ただし、それには相当のお金がかかります。研究費を二百方円ぐらいもらえればやってみたいなと思う仕事があるのですが、一つだけ言いますと、「わたし」と「われわれ」ということですので、「わたしと、わたしたちの、東南アジア及び中国の流通並びに地域研究」という、そういうようなテーマで研究ができたら、というようなことを考えているわけです。それは、東南アジアとか中国の代表的な都市、主要都市を中心に消費動向を探究し、あるいはまた消費者の志向するライフスタイルといったものを分析して、東南アジアや中国における流通業、特に小売業の指針になるようなことがやれたらいいなと、ということを考えているわけです。 研究内容としては、先ほど言ったように主要都市の消費者が求めている生活パターン、言いかえれば求めている商品群を、地域的な特性に照らしながら研究して、そしてもうちょっと高い生活水準を目指す、そういう消費構造といったようなものを研究することはできないだろうかというわけです。特に現代中国における小売業の実態とその問題を探って、変わりゆく中国の流通機構について解明できないものだろうかと、そんなことを考えたりしております。そういった際のモデル店も概念的に提案する用意はあるわけです。 もしも東南アジアや中国において流通業、とりわけ小売業を営むことができるとするならば、一つのモデルを提供することができる。その場合には、東南アジアや中国全土で大体何タイプぐらいの店舗が望ましいのか、また、各店舗にはどんな経営方針が望ましいのかといったようなことを研究して、そして東南アジアとか中国の人々の生活水準の向上に役立つ援助活動ができないだろうかと思っています。これは私だけでなく、私のゼミとかグループとかがそういったような形で研究することができるならば何かの役に立つのではないかと思います。 結論的に言いますと、こういうような研究活動ができるなら、私や、私たちのゼミも、〃世界のなかの「わたし」と「われわれ」〃というきょうのテーマに少しだけ近づけることになるのではないかと思います。それにしても、世界という広さの中では、わたしとはまことに小さな存在でしかないのだということで、小さな存在としての「わたし」と「われわれ」という話を終わらせていただきます。 |