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られるとは?

[ 36] られる
[引用サイト]
http://homepage1.nifty.com/kmiya/rare.html

日本語の「られる」は受動だけでなく自発や可能などいろいろな意味を表すことができます。英語の受動態は項の増減からみると目的語を主語に昇格させて項を減ずる働きをしていますが日本語の「られる」は項を減ずる場合にも使われますが、項をさらに付け加えるような場合にも援用されます。どうも日本語の「られる」は英語のbe + 過去分詞形で表される受動態とは1対1に対応していないことがわかります。このような特徴を持った「られる」を具体的に見てみましょう。
(1b)は(1a)の受動態です。(1a)の主語である「ケン」と目的語である「リサ」を入れ替えたようなものです。この場合、(1a)で主語であった「ケン」は斜格を帯びていて省略が可能です。(1c)のように「ケンに」を省略しても文法的な文ができます。このような「られる」は英語の受動態とほぼ並行的です。ほぼと条件をつけているのは日本語では(1a)を受動態にする場合は(1b)のように主語に昇格した名詞句は一般的に「は」格で表すのが一般的であるからです。英語ではこのような区別を形態的には行いませんからまったく英語と日本語とが並行的であるということはいえません。つぎに項を増やす次のような「られる」を考えてみましょう。
(2a)は名詞句を1つとる1項述語です。英語の場合は1項述語で表現されている文は自動詞ですから受動態にはすることができません。しかし日本語では別の項を追加して(2b)のように表現することができます。間接受動態とか被害受身といわれるものです。このような「られる」は「に」格で表されている名詞句を「によって」に置き換えると非文が生じてしまいます。(2c)が非文なのは(2b)の「に」格で表されていた名詞句が「によって」に置き換えられてしまったためです。さらに純然たる間接受動態と呼ばれる次のような例を考えて見ましょう。
(3b)は「リサ」と「ケンの頭」の2つの項からなる能動態の文です。この「ケンの頭」の所有格の「ケン」を主語にもってきたのが(3b)の受動態です。「ケン」と「ケンの頭」は全体対部分の関係になっています。一方、(3d)は「ケン」と「ケンの本」との関係で全体対部分の関係にはなっていません。「ケンの本」は単にケンの所有物であるだけです。これらいずれも「られる」で表されているのですが、項の減少は生じていません。このように日本語の「られる」はいろいろなものを表すことが可能です。英語のbe + 過去分詞と完全に並行的ではありません。とは言ってもそのような表現方法が英語や他の言語にないというわけではありません。必ず(2b)や(3b)の表現形式はそんざいするのです。単に英語でそのような表現をbe + 過去分詞で表現しないというだけの話なのです。他の言語でも同じ事がいえます。

 

[ 37] オンライン書店ビーケーワン:日本人はなぜナメられるのか「ナメられたっていいじゃないか、日本人だもの?」
[引用サイト]
http://www.bk1.co.jp/product/1971424/review/279164

日本人はなぜナメられるのかのお求めはビーケーワンで。1500円以上で国内送料無料。最速24時間以内に出荷可能。
外は謝罪外交、内は首相の失言…。「流されやすい国民性」を変革できるか? ごまかしの背後にある日本人のタテマエとホンネの心理構造に分け入り、「わが心の内なる矛盾・葛藤ぼかし」を克服する具体的方法を提言する。
いささか過激にみえる書名である。真実は耳にやさしくないのだ。まえがきで明言している。日本人論には「日本人は優秀だ」「立派な文化と伝統がある」とほめちぎる自己愛型と「日本人は欧米人と比べこんなにも劣っている」式にけなす自虐型とがあるが、著者の日本人論は「自己批判型」だという。自虐型は「日本と日本人が嫌い」なのに対し、自己批判型の著者は、「日本人のうそとごまかしが嫌い」なのだという。自己愛型も自虐型も日本人を駄目にするが、自己批判型は日本人を強くする。自らを信頼しながら、己の失敗や弱点を批判し、それを教訓に成長するのだ。日本人はだまされやすく、だまされるたがる国民に未来はない。と著者は言う。「つまずいたっていいじゃないか、人間だもの」という相田みつおの文を読んで「バカじゃん! こいつ」と叫びたくなるという著者の言葉に嬉しくなった。『平和憲法はすでに破棄されている。憲法九条は「死んでいる」』という指摘は恐ろしいが真実だろう。どうでもよいくだらない情報を大々的にとりあげて、新ガイドライン法、国旗国歌、盗聴法など国民をあげての論争がおこるべき問題をマスコミが国民から隠してしまうと言う。本書刊行後では、たまちゃん、白装束部隊等々。大事なことは論ぜず隠すのが仕事だ。著者は言う。『1991年の湾岸戦争で完全に「死亡した」と見るべきだ。政府から公式に憲法九条に対する「死亡診断書」が提出されたのが99年に国会を通過した新ガイドライン法だ。この法が成立しても、内閣は倒れず、デモ隊が国会を取り巻くこともなかった。それゆえ国民も憲法九条廃棄を認めたのである』と。「日米同盟」は幻想だと著者は言う。アメリカの意志とは、自衛隊を米軍の「番犬」として自由に海外に連れ出すことであり、それに都合のよいように日本憲法を変えることだ。歴史で明らかなように、軍事同盟というものはただでさえ不安定で信用ならない。まして「片務的」な日米同盟など幻想だ。憲法で集団自衛権を認めて「双務的」にしようという動きが改憲保守派にあるが、アメリカ属国たる日本軍は当然アメリカ軍指揮下に入ることになる。著者の案は「武装中立」だ。a.自衛のための軍事力を認める。b.永世中立宣言し、集団的自衛権を否定し、海外派兵と、海外侵略の禁止。c.すべての日本国民は、戦争犯罪と、海外派兵と、海外侵略への関与を拒否せねばならない。cは、無責任な政府権力にたいする歯止めだという。武装永世中立国にいきなりミサイルが飛んでくるという仮定自体ありえず、安保条約によって守られていると錯覚している今の現状の方が、ある日突然北朝鮮からミサイルが飛んでくる可能性のほうがはるかに高い。と言う。著者は言う。『アメリカエリート層の本音は「血みどろ戦」となることがあきらかな地上戦は「アメリカ軍の指揮下」で日本人を含むアジア人にやらせたいのだ。だから「国際貢献」できる「普通の国」日本という幻想に追いやり「アメリカの傭兵日本」という「真実」から目をそらせようとしている』「普通の国」を言い出した人間が率いる政党は、政権をとっても独立を目指すことはなかろう。著者が憂慮した通り、アメリカ軍指揮下でイラク戦争に派兵が始まる。人道的「復興支援」などというのは隠れ蓑で「国際貢献」は「アメリカ貢献」だ。著者は、武装永世中立論、アメリカからの軍事独立論は、素人の妄想として徹底的に無視されるか、猛烈にバッシングされると予想した。まもなく「殺したって殺されたっていいじゃないか、人間だもの」状態になる。西欧諸国のみならず、中国もロシアも、イスラムに対して手を汚している。日本だけたまたま圏外にあった。それが仲間に入るのだから、イスラムの血を流した国々の為政者達は今頃ほくそえんでいるだろう。「ナメられ続けたっていいじゃないか、人間だもの」というのが日本の哲学かもしれない。

 

[ 38] 【ことばをめぐる】(981112)よう(助動詞),られる(助動詞),ら抜きことば
[引用サイト]
http://www.asahi-net.or.jp/~QM4H-IIM/k981112.htm

何が「ら抜きことば」か、〈知識人〉といわれる人でも案外分かってないらしいことについては、以前書きました。「ら抜き」ではない「振り返れる」という語を、「ら抜きだ」と解釈していたという話でした。
「見れる」「着れる」は間違いで「見られる」「着られる」がいいのだ、などとよく批判されます。でも、前者が間違いだとして、それがなぜなのか分からないまま、言われたとおりの語形を個別に覚えるしかない人も多いと思います。使い手が直観的に適否を判断できないような、そういう語法は、どうしても滅びてゆく運命にあります。
中学校の国語の教科書も、「活用形がどうの……」と説明していて、それは正しいのだけど、ちょっと子どもの記憶には残りにくい。明快さに欠けます。
(前略)「着れる」(「着る」は上一段活用)「出れる」(「出る」は下一段活用)「投げれる」(「投げる」は下一段活用)「来れる」(「来る」はカ行変格活用)などと使われることがあるが、本来の言い方では、助動詞の「られる」をつけ、「着られる」「出られる」「投げられる」「来られる」という。(東京書籍『新編 新しい国語 2』1998.02発行 p.252-253)
なお、上一段活用の「見る」や下一段活用の「出る」を可能動詞にした「見れる」「出れる」という言い方も最近聞かれますが、一般的とはいえません。(教育出版『中学国語 2』1998.01発行 p.273)
教科書によっては言及していない本もありました。それは論外としても、こういう説明だけで「ら抜きことば」をやめる生徒は多くないでしょう。まして、学校を卒業して「何段活用」というのを忘れてしまった人には、なおさらワケが分からないかもしれません。
文法的に、考えに考えてやっと分かるようでは困るわけです。「ら抜きことば」の勢力拡大を阻もうとする人は、「何段活用のときは、ああで、こうで」と長ったらしく講釈するのはやめたほうがいいですね。それよりも、もっと簡潔に、次のようなスローガン(?)を広めたらどうでしょう。いわく、
どういうことかというと、「越えよう」のように、「よう」を付けられる動詞は「られる」をつけて「越えられる」と言えるのです。同類を示すと、
ここで、「どうして、『よう』が付くと、『られる』も付くのか?」と聞かれたならば、その時には、「活用がうんぬん」というより詳しい話を始めればよいのではないでしょうか。
追記 井上文雄『日本語ウォッチング』(岩波新書) p.24ではほかの判別法が紹介されています。いわく
ラ抜きかどうか心配になったら、その言い方の最後の「る」を取り除いて命令形としても使えるかを試せばいい。「走れる」の場合なら、「る」を取り去った「走れ」はまったく当たり前の命令だ。ラ抜きことばでないから使っていい。「走る」は五段動詞なのだ。これに対して、「見れる」の場合だと、「る」を取り去って「見れ」にすると命令形としてはおかしい。だから「見れる」はラ抜きことばによる言い方で、使わない方がいい。おかしなときには「見られる」のように「ら」を入れればよい。「見る」は一段動詞なのだ。
とのことです。語の活用の種類を特定するために、井上氏と僕とで異なる試薬を使っているだけなので、どちらの判別法でもOKだと思います。でも、僕の学生の中には
と言う人もいました。井上氏もそのような方言をもつ人には役立たないと認めています。その点、僕の方法のほうがちょっといいぞ、とひそかに誇っています。
「五段動詞」「一段動詞」についてご確認になりたい向きは、中学校の文法書を読み返すだけでも十分でしょう。(2002.03.13)
追記2 2004.01.28、NHK「お元気ですか日本列島」の「気になることば」コーナー、および、同日放送のNHKラジオ第1の「気になることば」で、この判別法を取り上げてもらいました。
「一つ告白しますと、この方法にもきわめて小さな「穴」があります。それは、「する」という動詞にだけは使えないということです。「する」に「よう」がつくと「しよう」になりますが、「られる」をつければ「しられる」です。今日「しられる」の語形を使うのは、関東など一部の地域に限られます。全国的な語法ではありません。とはいえ、「する」の場合、共通語では可能形は「できる」が使われますから(例、「勉強する」は「勉強できる」)、「られる」か「れる」かという問題はもともと回避されているわけです。」

 

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