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考えとは?
[ 302] わたしの考え・感想
[引用サイト]
http://www.hpmix.com/home/msekidon/mypage2/C5_3.htm
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考えがまとまるとか、まとまらないとか言いますが、ここでは自分の考えを、とにかく文章という形にして、自分が「おまえの気持ちはこういうものでいいのか」と自分に問うていく、そういう自分を確かめるための材料として、書いていきます。 こういうものをいくつか結びつけ、組み立て、継ぎ足して、自分の考えとして公表できるようなものにしていければいいなと思っています。 自分のことを書くとなると、やはり自分の行為、行動が材料となる。自分の行為、行動、態度など外にあらわれたものを、自分が見て、それを自分が「書く」のである。そこには二人の自分がいるようだ。行動してしまった自分と、そおれを批判したり反省せよと責めている自分とである。 自分のことを直接見ることは出来ない。自分の顔を見るのに鏡を使うように、自分の心を見るのに、自分の心を映す鏡が要る。私の場合、自分の気持ちを文章にして、それを自分が見るのである。絵描きは自分の意思を、イメージをカンバスに描いて自分を確かめていくのだろうし、彫刻家は粘土に、音楽家は曲を作ることに、それぞれ自分の内部を表現して、自分を確かめ確かめして、生きていく。生きるということは表現すること、表現していくことだ。そういう気持ちがなくとも、人間が生きていくときには、その人らしさが出てしまうものだ。意図しない自分が出てしまう、それを表現とは別に表出といっておこう。自分の行為、行動、言動、など、自分の内部が外に出てきたものを、自分が見ていくとき、そこに、自分そのものが見えてくる。 久しぶりで古い友達にあった。昭和30年ころの友達で、友達というのは当時の同僚と生徒たちのことだが、皆友達という感じの60歳になろうとするおじさん、おばさあんたちだ。同期会に呼ばれていったのだが、あの当時の話、回顧談というのだろうか、そんな話がでて、しみじみ思うのは、あの当時は世の中全体がおおらかだったということ。今のように気を使わなくてもよかったというか、万事が伸び伸びしていたということだ。そんな感想が聞かれた。あの当時は生徒も教師も伸び伸びしていたということ、今の方がせせこましく窮屈になって、縮こまっている。どこにそういう原因があるのか、どう思うかと聞かれて、さてと考えてしまった。このことは私の気持ちの中に宿題となって残っている。 自己一致ということ。自分の気持ちと自分がしていること、言行というものが一致していること、これを自己一致という。こういうと単純なようだが、これはそんなに簡単なことではない。というのはどのような言動にしても、本人が心のどこかで思っていることが言うこととか、やることになってでてくるものだという言い方も出来そうだし、逆に、イヤ人間というものは自分でもどうしてそんなことやってしまったのか分からないことを、しばしばやってしまうものだ、自分でもどうしてそんなこと言ったか、わからないことを言ってしまうもの、口に出してから、拙いと気づいて、あっ、しまったとあわてるなどということがあるもの、とても自己一致とはほど遠いものだ、とも言えそうだ。これを解釈するのに意識と無意識という概念を援用する。人間の心は自分でもその存在がわからない部分・・・無意識と、自分の意識になっている部分とがあるという考えによって、分かったような気になる。この「分かったような気になる」という言い方、私はこれにたいていのものは含まれるように思うのである。自己一致というものの考え方もその一つである。 自己修正の難しさは自分というものを分離することの難しさだと、こんなことに気が付いた。いや気が付いたというより、ふと考えたという方がいいだろう。私は以前から私というものはアンビバレントな存在、つまり私の中には二つの考え、思いというものがあって、それが対立することが少なくないと思っていた。平たく言えばあれにしようか、これにしようか迷ってしまうことが多いのである。それを優柔不断ということもできるし、慎重なのだと言うこともできるが、そういう二人の自分がいて、これならこれと決定できないでいる。「これをやろう」とか「これをやめよう」とか、心で思っても、「まあいずれな」、とか、「そのうちにな」、とか曖昧なことを思ってしまって、ずるずるとそのままになってしまう。自己修正が難しいとは「思い立ったが吉日」と考えて、即座に取りかかることだと、私は思っている。それがアンビバレントな自分を両方引きずっていないで、はっきり分離させることと考えた所以である。 気遣いも難しい。家族の間でも、夫婦の間でも気遣いは容易いことではない。やさしい気遣いをしたつもりでも受け手の気持ち次第で、それがいやらしく感じられるときもある。ビクビクしているとか、オドオドしているとか、顔色をうかがっているとか、マイナスに感じられて、もっと堂々としていなさいなどと言われることがある。自分の思い、感じたことがそのまま通りにくい。相手の考え、解釈というものがあって、それがぶつかり諍いになる。相手にどう伝わろうと自分がしたいことを、したいという理由だけですること。結局、これが自分にとって一番いいことのようだ。 絵描きさんにその人が描いた抽象画を指して「これは何ですか」ときいたら「自画像です」とこたえたという。 作家が書いたもの、彫刻家が制作したもの、私のような者でも自分が書いたもの、何かの作品は、すべて自分のイメージをそういうカタチにしたもので、すべて自画像だということができると教えられた思いであった。着るもの、話すこと、ちょっとしたしぐさ、表情、あらゆるものが自分なのだ。このHPにしても私自身でないものはない。私なのだ。が、その私とは何か、どこへ行くのか、これからどうなるのか、どうなりたいのか、こんな素朴な質問にも答えられないのも私、あれこれ迷っているのも私、やっぱり私って何なのか、わからない私、わかるヤツがいるのかなあ。いないと言いきっていいのかなあ。それもわからない私。そんな得体も知れないヤツが私なのだ。 文化は人間の楽しみから生まれた。こういうと誤解を受けるかも知れないが、それは「楽しみ」という語の中に、低俗なものを連想させるものもあるからで、そういう誤解は下劣な品性がもたらすもので、ここではそれは論外にしておく。ここで私が考えるのは、あらゆる文化は人間の本質である「楽しいことをする」という動向の結果、生み出されたものであるという考えである。人間の意思を絵や形に表すこと、それ自体が人間の楽しみであるので絵画、彫塑、造形という芸術が生まれた。意思や思考を表現するのに文字が使われ文学が生まれ、音を媒介にして音楽が生まれてきた。それぞれの表現は人間に楽しみをもたらしたのであって、その結果の芸術の誕生は「楽しみ」がもたらしたものということができる。人間の表現、描くこと、造ること、書くことなどは、人々に楽しみをもたらす。人は、その本質にそういう表現を楽しむという傾向をもつものであると考えるのである。 これまでの制度というかシステムの中で、これはいい制度だなと思うものが、新しい考えの中でなくなってしまうと、やはり私は何かと口出ししたくなる。私は長年公立学校の教員であったから、最近の学校の様変わりが気になって仕方がない。その一つに教員の研修制度のことがある。その研修によって教員の技術技量の向上とか、教職意識の高揚というものがあったと思うのである。その研修制度に重要な意味を持つものとして指導主事制度があったと思うのである。指導主事は現場の教員の中から、それなりに実績のある人を教育委員会が選んで、各学校での研修とか教育研究に助言者、あるいは講師役として参加させるというものであった。つまり指導主事は自らの実践や研修の成果を、同僚の教師たちに広げていく役割を持っていたのである。それゆえ指導主事はそれなりに研修を深め、自らの実践を確かなものにしていく。人一倍勉強もし、多くの学校の実践から学んで、その見識を広げていく。指導主事はその意味でもエリートであり、ある種のプライドももっていた。他の教師もその実践力に敬意を表し、一目置いていた。自分も指導主事になりたいとあこがれるものもあった。それは学校教育全体のレベルアップに少なからず貢献していたのである。その指導主事の役割が変わってしまったという。現行の指導主事には教科指導の先達としての役割はなく、学校運営全体の事務上のサポーター的な役割になっているという。したがって教員全体の指導力アップは教科指導を専門に勉強し、実践していく先達のないまま行われることになったようだ。これが全体としての指導力の低下につながっていると指摘する人もいる。これが私が指導主事制度の復活を望む所以である。 この二、三日、気にしていたことがある。いやもっと前から気がかりなことがあった。わざわざこういうところに書くこともないことだが、ホームページの増量登録のことで、増量したがどうも増量分を使っていないということ、月々使用料だけは支払われる。預金利息が10円とか15円とかの時代に使用料525円はバカらしい。増量分は解約したいと思っていたのだが、そのノウハウがわからない。毎月UCの利用代金明細書が送られてくるたびに、解約手続きを模索するが、どうもそのノウハウが明確でない。気にしながら数年間、「うやむや」にしてしまっていた。年間6000円あまりの無駄な経費、それが数年そのままになっているのは、怠慢もいいところだ。そこで今回は何としても解約手続きを完了するぞと、粘って四苦八苦し、とうとうその操作完了にこぎ着けた。そして最後のクリック。するとあっさり「解約しました」とサインが出て…それで終わり、実にあっけないことであった。こちらはあれこれ調べて、操作を行き詰まらせ、さんざ苦労したつもりなのにこんな味気ないものなのか。そう思ったら気抜けした。こういう感じがパソコンの世界なのか。汗も涙も人の息もない無機の世界、プラスかマイナスか、1(イチ)と0(ゼロ)しかない世界。情緒がない世界・・・。そこであらためて「来てみれば、さほどでもなし富士の山」という歌が胸に浮かぶ。浮かぶのは私が人間だからでコンピュータにはそんな情緒は毛ほどもあるまい。これはやはり味気ないというのだろうな。幼いころからコンピュータをいじっていて、コンピュータに同化してしまっているかのような子どもは、やはり血も汗も涙もないニンゲンになってしまうのか、などと感じてぞっとする。 これは完璧な幸福の秘けつである。今の日本では、今の状態を「喜べ」などという人はいないであろう。それどころか、社会にどのような不満と不正義があるかとあげつらうことばかりに熱心である。昨日の新聞がそうだったし、今日の新聞もそうであった。明日の新聞も多分そうであろう。しかし喜びなさい、とパウロは言う。…とこれは曾野綾子「現代に生きる聖書」の一節。こういう考えが幸福の秘けつ、しかも完璧な幸福の秘けつだという。存在するもののすべてがよいものであるというのであるから、そういう世の中にあることは幸福に違いない。戦争も、テロも、裏金づくりも、イデオロギーの対立も紛争も、すべてを「よきもの」として「喜べ」というのだから、そんなことできるはずはない…というのが普通であろう。だがそれを、努力して「喜べ」というのがキリスト教的命題であるという。 |
[ 303] 考えながら走るサッカーの真意 : ワールドサッカープラス
[引用サイト]
http://wsp.sponichi.co.jp/column/archives/2007/04/post_744.html
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オシム監督のサッカーを示すキーワードとして、なかば当たり前のように使われている「考えながら走る」だが、その解釈は難しい。そもそも考えないで何かをするほうが難しいし(試しに何も考えずに1分間を過ごしてほしい。あなたはきっと何かを考えるはずだ)、走らないでサッカーをするのはもっと難しい。これではまるでアホの戯言である。なにを今さら、と思われるかもしれないが、改めてそのキーワードの意味を、ここ数試合で解釈しようとしている。 Jリーグ第5節、フクダ電子アリーナでの千葉−横浜FC戦は、試合後にホームチームの選手たちが「今シーズンで一番の出来」と振り返ったように、千葉の“走力”と“考力”が存分に発揮されたものとなった。巻をスピアヘッドに、その後方で工藤と羽生が、これでもかと突っかけ、アウェーチームの守備ラインを乱す。時にはポジションを下げて、横浜FCのボランチに餌を蒔(ま)いて釣り出し、一気に縦に走り込んでマークを受け渡す時間を与えない。慌てて対応したDFが空けたスペースにもうひとりがクロスランニングで入り込み、さらにかく乱。そして、両サイドの水野、山岸も光った。サイドバックが中央に絞ったところで、スピードを活かしてボールを呼び込む。抜ければそのままクロス、さもなければサイドバックを再び呼び寄せ、そのスペースにボランチを侵入させた。効果的な運動で波状攻撃を生み出し、横浜FCをガタガタに。4−0で圧勝した。 千葉の選手たちのプレーは、「走る」段階で、「考え」が整理されていたように見えた。このダッシュは何をもたらすのか。また、彼のランニングによって、自分はどう動けばいいのか。常に流動するピッチからは、そうした選手間の意識の絡み合いもうかがえ、観ていて楽しかった。きっと選手たちも楽しかったに違いない。 アジアチャンピオンズリーグ、ホームに上海申花を迎えた浦和のサッカーは、“走力”にも“考力”にも欠けていた。上海申花がゴール前に人数を割き、難しい試合だったのは理解できる。だが、だからこそ走ることでDF網を突き破る姿を観たかったが、相手が明け渡してくれたスペースに入り込んではパスを受け、少し寄られたら横パス。その瞬間に縦に、といった動きに乏しく、穴が開かないためにまた横パス。自ら活用すべきスペースを埋めることに終始してしまった感がある。 では、浦和の選手は考えていなかったのか。いや、打開のために各選手は目まぐるしく働かせていたはずだ。こっちへ送るとどうなる? もしあそこへ走ったら? ただ、千葉のように、走る以前に考えが整理されていなかった。走って考え、受けて考え、こうしてほしいのにと、また考えて……。これでは相手を翻弄することはできない。 「考えながら走る」のは当たり前であり、それは誰でもやっている。だが、どこまで目的を見据えているか、その目標のために、このプレーがどう作用し、どこまで影響をもたらすかを考えるのが肝心なのであろう。しかし、ここで疑問も生じる。本当にそこまで考えることは可能なのだろうか。千葉の選手のプレーは「走る」段階で「考え」が整理されているように見えた、と前述したが、瞬時の判断ではおぼつかないところもあるのではないか。 推測である。人とボールを相手にアタックされなければ、思い通りに攻め、守れる。そのためには、「考えながら」では遅い。「考え」のいくつもの引き出しがあって、試合では相手に応じて必要かつ最良のものを、オートマティックに引き出すこと。それをオシム監督は目指しているのではないか。引き出したうえで、前回で西部さんも触れたように、絶え間ない運動で表現できれば、世界に太刀打ちできる。そう考えれば「ポリバレント」も、「あいつはあそこにいるからこういうプレーをして」と的を絞らせない、あるいは「あいつがいつの間にあんなところへ」と相手を惑わすため、と解釈することができる。 つまり、オシム監督の「考えながら走る」は、「考えないで走れ」のアンチテーゼ、もしくは「考えないでも走れるように」という真意のメタモルフォーゼなのではないだろうか。 World Soccer Plusに掲載の記事・写真・カット等の転載を禁じます。すべての著作権はスポーツニッポン新聞社と情報提供者に帰属します。個人情報 | 著作権 | リンクについて | ご意見 |
[ 304] Zopeジャンキー日記
[引用サイト]
http://mojix.org/category/opinion/
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YouTubeの勢いはすさまじく、このまま行くと、いずれGoogleにとって脅威にすらなるかもしれない。 アメリカのメディアに吹き荒れた「NOMO旋風」は、日本人がそれまで見たことがない「何か」だったように思う。 それ以降、野球でも、サッカーでも、有能な選手がポンポン海外流出して、それはもう「あたり前」になった感じだ。 私が見かける範囲だけでもそうなのだから、おそらく日本はさまざまな分野で、世界レベルに達していることだろう。 日本が以前から進んでいるマンガやアニメ、ゲームなどはもちろんだが、スポーツ以外にも、ファッションや映画、建築、音楽など、かつては欧米が強かったさまざまな分野でも、日本は世界レベルで認められるようになってきた感じがする。 その自信により、かつては確実にあったはずの「欧米への劣等感」、その裏返しとしての「欧米へのあこがれ」みたいなものが、日本からいつのまにか消滅しつつある気がするのだ。 ネットのコンテンツは、ナマのまま投げ出されている感じのものが多く、「見やすさ」や「まとまり」に欠けている気がする(自分も決して例外ではないが…)。 これはアマチュアの大量出現、ライティング・スキルといった問題もあるが、たいていの情報はボランタリーで、制約がなく、ノーチェックで、「自由に書ける」からだと思う。プロのほうが多少スキルが身についている面はあるにせよ、プロかアマかというよりも、「自己に制約をかける」ことがむずかしいのだと思う。 「自由に書ける」ことはもちろん素晴らしいのだが、負の側面もある。ファースト・ドラフトを書いて、それをみずから推敲するようなことはなかなかむずかしいので、たいていファースト・ドラフトのまま出してしまう。ファースト・ドラフトはたいてい「長すぎる」ので、長すぎるものがそのまま出てくることになる。加工の少ない、ナマの情報にはもちろんその良さもあるが、それをそのまま出すと、読み手のほうが咀嚼する作業が多くなり、読み手の負担が大きい。 このときの「less」はもちろん、単に少ないのではなく、エッセンスを凝縮した「less」でなければならない。 梅田ブログや梅田本でグーグルの記述が多いことは誰でも気がつくが、梅田氏がなぜグーグルをそれほど「買う」のかは、テクノロジーではなくビジネスの視点に立たないと、なかなかわからないのではないか。 グーグルがまぎれもなく「テクノロジー・カンパニー」であるのは確かだが、グーグルが「テクノロジー」だけでは成立しないのも確かだと思う。私もグーグルにとても興味があるが、それはテクノロジーの側面だけでなく、ビジネスの側面からも見ても面白いからだ。グーグルが新しいサービスを出すたびに、私はいつもビジネスモデルの側面を考え、いつも感心させられる。 テクノロジーを持つ会社はこれまでもたくさんあったし、いまでもたくさんあるのに、グーグルみたいな会社がこれまで存在しなかったのはなぜか。梅田氏がグーグルにこだわるのも、きっとそこだと思う。 これはチープ革命とかWeb 2.0といった時代状況が見方した側面もあると思うが、私はグーグルこそ、「テクノロジー」というよりも「ビジネスモデル」の会社であり、また「社風」の会社だと思う。グーグルのテクノロジーはもちろんすごいが、それを生かした「ビジネスモデル」と「社風」こそが、これほどのポジションを可能にしていると思う。 「ビジネスモデル」「社風」の結合が強みになっているテクノロジー・カンパニーで、グーグル以外で私が最初に思いつくのは、マイクロソフトだ。私はマイクロソフトの内部は知らないので(もちろんグーグルの内部も知らないが)、外から見た印象に過ぎないが、外から見た限り、 この3つを、マイクロソフトは兼ね備えていると思う。そして、スタイルは違うが、グーグルにもそれを感じる。 内容については、これまでの梅田ブログのまとめという印象が大きい。数年来の梅田ブログの読者である私にとって、まったく目新しいポイントというのはなかったように思う。 私はむしろ、この小さくて薄い新書を、その内容というよりも、梅田氏にとっての大きな「仕事」として捉えている面が大きい。その意味で、自分の本でもないのに、何か「感慨深い」ものを感じる1冊なのだ。 この新書の価値は、ブログを読んでいない人にも手軽にわかるようまとめられている、「Less」の価値だと思う。梅田ブログの読者には、自分の知らない「More」はここにはない。「Less」に凝縮されているところが、この新書の価値だと思う。 この内容をほぼ理解している人はたくさんいるだろうが、ここまでわかりやすく、一般のビジネスピープル向けにまとめられる人はなかなかいないだろう。梅田氏は、この「まとめ」にかなりの時間と労力を注いだものと思う。自分の書いたものを短く、それも一般向けにまとめていくのは、実にむずかしい作業だ。 SNSの可能性と限界は、パブリッシング(公開)ではない、クローズドなコミュニケーションの可能性と限界だと思う。 公開されないので、コンテンツが第三者によってあとから発見・利用されるという「アーカイヴ性」は少なくなり、リアルタイムに近いコミュニケーションの「メッセージ性」が強い場所になる。このような「場所の特性」により、パブリッシュ志向の人はブログなどに流れるので、コミュニケーション志向の人が残りやすい気がする。 いまのところ、ブログに対して特にSNSが強いのは、グループ・コミュニケーションだと思う。ブログは多かれ少なかれ、そのブロガーの独演会、演説、あるいは独り言のようなものなので、直接のグループ形成の場にはなりにくい。 いっぽう、電話やメール、メッセンジャーのように、少数の知り合いどうしのクローズドなコミュニケーションでも、あたらしいグループの形成は起きにくい。 SNSの可能性は、そのどちらでもない、自分があまり知らない人を含むグループの形成や、その中でのコミュニケーションにあると思う。共通の関心を軸にグループを形成していく場所としては、SNSはいまもっとも有力な仕組みかもしれない。 「マスメディア vs ネット」という図式は、「旧世代 vs 新世代」みたいな要素や、「上流 vs 下流」(あるいはその反対)、リテラシーの格差といった要素も含んでいるが、「プッシュ・メディア vs プル・メディア」という軸で考える必要もあると思う。 こう書くと、なんだかプッシュ・メディアは洗脳機械で、プル・メディアを使うほうが賢い感じがするが、プッシュ自体が悪いわけではないと私は考える。 重要なのは、プッシュ・メディアの質だ。誰でも、プルよりはプッシュのほうがラクだし、ラクなほうがいいと思う。 その後の売れ行き、すなわち「需要と供給のバランス」によって、価格は自然に決まっていく、という考え方だろう。 ミュージシャンのディスコグラフィー、映画監督のフィルモグラフィー、作家の著作リストなど、なんでも手に入る。 「permanent (永久の)」という名前は、その記事のURLが変化しないことから来ているのだろう。 ウィキペディアの「ライブドア」というページは、固定したURLを与えられているが、その内容は刻々と変わっていく。 自分のデータをネット上に流すのは、セキュリティ的にも、パフォーマンス的にも、何か違うという気がする。 <東京証券取引所は、取引の成立件数が膨らんでシステムがパンクする恐れがあるとして、400万件程度に達した同日午後2時40分、全銘柄の取引を停止する異例の措置をとり、この時点の株価が終値となった>。 O'ReillyのエディターがDiggのCSSをパクったという疑いで、Diggで糾弾されるという事件が先ごろ起きた。 実情は、直接パクったわけではなく、彼が使っていたツールの元を辿っていくと、DiggのCSSに行き当たるということだったようだ(つまり「間接的に」使っていた)。 <100円で 内モンゴルのホルチン砂漠に植えるポプラの苗木が10本買えます>といった、ちょっとしたお金で環境に対してどんな貢献ができるかの「アクション」を50個、きれいな写真とともに例示したビジュアルブックだ。 環境本でありながら、タイトル通り「お金」を軸に見ている本なので、それほど説教くさくなく、いろいろなものの「値段」がわかるような面白さがある。そして、いくつか収録されている関連知識の解説文のなかに、興味を引かれるものがいくつかあった。 『お財布からの投票』というテキストでは、そのタイトル通り、お金を使うこと、消費とは「投票」だと書かれている。これはまさに、「お金は社会の回りもの」「投資の社会的責任」「利回りよりも大切なもの」などで、私が何度も書いてきた話だ。私は「社会的責任投資(SRI)」という言葉も知らず、素人考えで書いていたわけだが、消費が「投票」であるという見方は、すでに確立された見方だったようだ。 著者の斎藤氏は、電通を経て米国NYの大学院に留学し、そこでアリス・テッパー・マーリンというCSR(Corporate Social Responsibility 企業の社会的責任)の専門家に出会って、のち社会責任コンサルタントとして独立した、というキャリアの持ち主。 「はてなブックマーク」や「del.icio.us」など、主にソーシャルブックマークのタグを見ていると、 <たぶんスキルとか資格よりも、偶有的な自分の軌跡そのものに対してもっと興味を持つとか、実はそれが自分にとって一番大きな投資なんだ、という認識を持ったほうがいいように思う>。 <資格とかスキルって、結局のところ自分を代替可能な何かに位置づけることであって、確かにジョブ・ポータビリティは高まるけれども、自分自身で付加価値をデザインすることは難しいのである>。 このような「ユニークな能力」を持っている人の代表は、アーティストやクリエイター、芸能人、俳優、作家などだろう。「名前が売れている」とか「有名人」は、たいていこれにあたる。 これに対し、2)の「スタンダードな能力」、つまり標準化された能力は、一定の標準化されたスキルに基づく能力だ。標準化されているがゆえに、他にもそのスキル・能力を持った人材がたくさんいる。 標準化されているので、どこでも通用するというメリットがあるかわりに(これを楠さんは<ジョブ・ポータビリティ>と書いている)、独自性が少ないので、「替えがきく」ということでもある。 このようなスタンダードな能力は、その標準化されたスキルを意味する「普通名詞」によって認識される。その代表は、公認会計士や税理士、電気主任技術者、宅地建物取引主任者など、資格が必要なスキルだろう。 いくら高度な資格であっても、これらは標準化されたスキルである以上、<結局のところ自分を代替可能な何かに位置づける>ことになるわけだ。 スタンダードな能力は、ほぼ同型のスキルがたくさんあり、そのスキルがどれも同じ名前で呼ばれるという意味で、「普通名詞」的である。 「なまえとタイトル」の最後のほう、「対象が多すぎると、タイトル的な名前は機能しない」という項で、私は次のように書いた。 <「ファイル名はなくてもいいかもしれない」という話が出てくるのも、まさにこの状況だ。ファイルが多すぎて、どこにあるかわからなくなるような状況では、ファイル名の「説明」機能がそもそも果たせない。 「対象が多すぎる」とは、この場合、「全部のタイトルをざっと眺める」ことすらできないくらい、対象が多い状況を指す。 ネット上にページがどのくらいあるか知らないが、タイトルを追うだけでも、おそらく一生かかっても終わらないはずだ。 「ディレクトリ」とは、カテゴリという「説明的な一般概念」をツリー状に構成したという意味では、いわば「タイトルの階層」とも言える。 ひとつひとつのカテゴリが「タイトル」であり、人間はそれを「目視」し、その「意味」を理解しながら、階層を渡り歩くのだ。全体を一気に目視するのではなく、目視しながら渡り歩くにせよ、人力による「目視サーチ」、つまり「ブラウジング」であることには変わりがない。 しかしこの方式には、問題がある。単に面白いページを見つけて読んでみたいという、散歩的な目的にはそれでもいいが、特定のトピックについて調べたいときには、これでは時間がかかりすぎる。 たまたま、知りたいトピックがカテゴリにピッタリ一致し、充実した情報が見つかる場合もあるが、それはむしろ幸運な例外だろう。たいていは、まず知りたいものが階層のどこにあるかを探すのが困難で、仮に見つけたとしても、その階層に充実した情報が並んでいることも少ない。 そもそも、ディレクトリは作る側もたいへんだ。どんどん変化していくインターネットの上で、見る価値のある良いWebサイトに限定したとしても、それを人力で発見し、人力でカテゴリ分類すること自体、どうしても無理がある。 どんなにうまく分類したところで、サイトを訪れた人も、それを見つけるのが困難なのだ。ツリーの全体を一気に目視できるならまだしも、階層ごとにしか見れず、渡り歩かないと全貌が見えないのだから、なおさら困難だ。 <まずは会社名と名前とEメールアドレスだけが書かれることになりそうな伊藤ガビンさんの名刺を想像してみたら、なんだかやたらとカッコよくなりそうな気がします。メディアの先端にいる人たちにとって、自分を示すために必要な情報がとても少なくなっていることが良く分かります。 極端なことをいえば、自分のことをウェブで検索してもらう糸口さえ示せばいいのだから、名前だけでもいいのかもしれません。 なんてことを考えていると、mojix さんが、名前はなくてもいいかもしれない、なんておっしゃる。まぁこれは人物の名前のことじゃなくてファイル名のことなんですが>。 <ブログはインターネット上の人格みたいなもので、履歴書と言う実社会の人格を表す書類と同時に、ブログというインターネット社会の中での人格が無いと、なかなかその人を判断できないのではないかと気付いたのです。 履歴書と言うのは1日あれば誰でも作れてしまうわけですが、例えば1年分のブログというのは1年間かけないと作ることはできません。その中には、はてなへの入社を目的とした内容だけでなく、本当の自分の姿、興味、性格などがより出ているわけです。 ですので最近は、応募者のブログを何か月分も読んで採用の判断を行うことが増えています。インターネット企業に限らず、採用の際に自分のブログの提出が必要な企業がこれから増えてくるかもしれません>。 私も以前<これからは「ブログが履歴書」だ>と書いたが、この近藤さんのエントリは、なぜそうなのかを説明している。 面接や入学試験は一時的なもので、また考え方や性格まではわかりにくいところがある。<採用の際に自分のブログの提出が必要な企業がこれから増えてくる>というのは、冗談ではなくこれから現実化していくと私も思う。 ブログはふだんからの継続的な活動であり、知識や興味の方向・範囲、情報の発信力・伝達力、思考や性格の特徴など、いろいろなことがわかる。 ブログをやっていないとダメということはないにしても、ブログがあればそれだけアピール材料が増え、有利になることは間違いないのではないか。 そしてそれは、もちろん特定企業への採用だけでなく、その人自身を説明する「ポートフォリオ」として、一生役に立つものになると思う。 (大意:ますます多くの人が、満足以外に何も得られないことに、ますます多くの時間(とお金)を使っている) この市場はエコノミストも測定が困難で、特にWebはそうした楽しみを見つける場になっている、としている。Flickrに写真をのせたり、自分のバンドの曲をMP3で公開したり、といった例をセス・ゴーディンは挙げているが、ブログなどもその最たるものだろう。 ホビーの重要性は、労働においても知的なものが増え、クリエイティヴィティが必要になっていること、仕事と遊びの境界があいまいになってきていることなどにも関係していると思う。 <無名のファイルシステムを考える。無名とは呼んで字の如くファイルに名前がついてない事である。私達はファイルには必ずファイル名がついている物と考えているが、ファイル名には欠点がある。だからファイル名は無いほうが良い。少なくともファイル名が無くとも動作するシステムを設計するべきだという主張>。 そして探すときは、タグか、全文検索・条件検索で探せれば十分だ。というか、量が多いときはそれしかない。 Life is beautiful - ビル・ゲイツの家のトイレは流そうとすると「本当に流しますか?」と警告してくる 著者のsatoshiさんは、マイクロソフトに在籍していた1998年、<"flat file system"(ディレクトリ構造をユーザーから完全に隠し、タグとサーチ機能を全面に出したファイルシステム)>をベースにしたOSのユーザインターフェイスを提案していたが、斬新すぎて通らなかったという。まさにこれだ。1998年には斬新すぎたかもしれないが、2005年のいまなら、これがピンとくる人は多いはず。 先日のエントリ「「みんなと同じことをする」人しかいない国」には、思っていた以上の反響があった。特にトラックバックをいただいた「レジデント初期研修用資料 : みんなと同じことをするという戦略」は有益な内容で、考えさせられた。 私のタイトルのつけ方もいくらか挑発的だったのだが、私は「みんなと同じことをする」ことがつねにダメだとは思っておらず、それが有効な場合もあると思っている。そのあたりの補足の意味も兼ねて、少し書いてみたい。 <日本経団連の奥田碩会長は5日の記者会見で、東京株式市場で株価が急上昇していることについて「日本全体がバブルの時期のような雰囲気になっているのではないかと思う。株価が上がることに乗り遅れるのではないか、という焦燥感から買いが買いをよんでいるような状況だ」と述べ、株価が経済の実態以上に上昇しているとの警戒感を示した。 奥田会長は、雑誌やテレビなどで株式投資をあおる記事や番組などが最近増えていることも指摘し、「カネ目当ての国になるのではないかと思う」と憂慮を示した。そのうえで、「二度と前回のバブルの轍(てつ)を踏まないように日本人として考えなければならない」と警鐘を鳴らした>。 働かない高齢者の割合が増え、若者も無気力化しているこの日本では、実体価値を作れる人はますます減っているはずだ。どうやって中国やインドと競争していくのか、日本の競争力を真面目に考えるべき局面だというのに、何か勘違いして、マネーゲームをやっている気がする。 なんと、若者の「下流」ぶりを伝えるコーナーのあと、その流れで、いまどきの若者を教育するユニークな企業、といった切り口で出てきましたよ。 はてな自体が「下流」だとはまったく言っていなかったけど、あの見せ方だと、「下流」な若者を集めて、教育して使っている企業なんだと思ってしまう人が少なくないと思う。 日本のIT・ネット企業の中で最先端のはてななのに、スタッフがみんな若く、温厚な感じで、ヒルズ族みたいにギラギラしていないので、パッと見は余計「下流」に見えるのかも(笑)。 くじ引きで席を決めたり、紙と箱でタスク管理したり、立ってミーティングしたりというのは、XPとか知っている人間ならアジャイルだと思うだろうけど、「IT企業=ヒルズ族」みたいなイメージを持っている普通の人から見れば、単に貧乏くさいようにしか見えないかもしれない(笑)。おまけに「はてな」なんていう変な社名だし。 はてなが「アジャイル・カンパニー」であることは疑いないと思うし、アジャイルが重視する「シンプル」さは、たしかに「倹約」とか「質素」にもつながってくる。 「下流」の定義はよくわからないけど、世俗的な成功を絵に描いたようなヒルズ族よりも、質素な「下流」のほうが、アジャイルの精神に近い気はする。その意味では、はてなはヒルズ族よりは「下流」に近いとも言えるかもしれない。 日本経済が活況を取り戻すのはもちろん望ましいが、株価が実体を反映しているとは限らないのは、バブルの教訓だ。大事なのは株価を上げることではなく、実体経済を伸ばすことだ。 バブルがはじけて、お金を失うくらいなら別に構わない。利回りばかり追求して、ロクに考えもせず投資していると、お金よりももっと大事なものを失うかもしれない。 株を買うということは、その企業への「投票」であるだけでなく、正真正銘、その企業の「所有権」だ。その株の持分だけ、その企業に対して権利を持つだけでなく、責任を負う。その企業が反社会的な行動をしたとき、株を持っている人は、その分だけ責任があると思う。 もちろん、株を少しくらい買ったからって、その企業を実際に動かせるわけではない。実際に会社を動かすのは経営者であり、またその経営者を動かす大株主だろう。その意味では、実際上は「所有権」というよりも、「投票」くらいの意味合いに近い。しかし小さな株主でも、株を買うかどうかの「選択」はできるのだ。 いくら株を買う前にその企業を吟味し、調べていても、IRの開示情報自体が間違っていたり、粉飾会計だったりする可能性はもちろんある。それでも、マトモな企業かどうか、世の役に立つビジネスをしているかどうかは、出回っている情報で、大体わかるものだ。人間の性格が突然変わらないのと同じように、企業の「性格」も、突然変わることは少ないだろう。 連日報道されているマンション耐震強度偽装問題で、もっとも大事な教訓とすべきなのは、「手を抜いたほうが儲かる」ということ、「儲けようとして手を抜いた」ということではないかと思う。人命や社会的責任よりも、儲けを優先したわけだ。 今回問題になっている企業は、問題が発覚したから叩かれているが、もしこのまま発覚していなかったら、「成長企業」だったかもしれないのだ。なにせ、手を抜きまくって、すごい「利回り」を上げているのである。そこに投資すれば儲かるとなれば、投資してしまう人もいるはずだ。 「Amazon Mechanical Turk」にトラックバックをいただいた以下のブログで、面白い指摘があった。 1998年のゲームで、<ゲームの目的は「音源集め」。ミニゲームで稼いだ小銭をガチャガチャ(ガチャポン)に入れ、出てきた音(音源)を組み合わせてDJプレイをする>。 これが基本的にはゲームの目的なのだが、そこにたどり着く前の、小銭を稼ぐための<バイトと呼ばれるミニゲーム群>が面白いらしい。以下のようなものがあるそうだ。 延々と流れてくるボールペンの本体にキャップをかぶせていく。このミニゲームにはBGMがなく、「キュ」「ポン」という音しか聞こえてこない。成績が良いと、いいことが起こる。(?) 道路を走行する車を避けながら、キャラクターを操作し道路の向かいを目指す。途中に落ちているキノコを取るとボーナス得点が入る。タイトル画面の曲がアニメ・サザエさんの挿入曲に似ている。 薪を延々と割っていく。動物やそのほかの物を割ると失敗。動物にそっくりな薪もあるので注意。失敗時の音楽はドリフのコントでズッコケの際に使われるものと似ている。 道を通り過ぎる通行人をカウントしていくゲーム。人間以外にも宇宙人や猫、戦車などが通るので、うまく人間だけをカウントしなくてはいけない。 このブログの著者は、以前仕事でかかわったことのある人からメールを受け取った。Tridionという商用CMS(コンテンツ管理システム)に対し、PloneというオープンソースCMSが候補に挙がっているのだが、Ploneの弱みを知らないか、というもの。 これに対しブログの著者は、自分はポジティブな面に目を向けたい、自分の子供にも、他人の悪いところでなく良いところを見つけることの楽しさを教えたい、といったことを書いている(R.E.M.の曲「shinny happy people」にもリンクしている)。 「商用 vs オープンソース」という図式は、そろそろ終わりかもしれない。このBusiness Objectsや、Computer Associates、先日書いたNokiaなど、むしろ大きいベンダーや有名企業ほど、オープンソースの重要性を理解し、それにコミットしている印象を受ける。 企業にとって、オープンソースとはもはや対抗したり、恐れたりするものではなく、どのくらい取り入れ、どのように活用するか、という時代になってきているのだろう。 <Web 1.0の時代というのは、それぞれの技術が充分に派手であり、これといったキャッチフレーズを用意せずとも「素人でも見ればわかる」時代であった。Web 1.0の直接利用者は素人であり、わざわざ1.0などとのたまわなくとも「一目見ればわかる」のである。 これに対し、Web 2.0というのは、「Webが使うWeb」であり、一般利用者はWeb 2.0に直接触れるのではなく、Web 2.0によってWeb 1.0に「変換」された環境を通して利用している。blogを書くのにXMLなんぞ知る必要はない。XMLが必要なのはblogサイトを書くもの達だ>。 Web 2.0は、完全な一般ユーザから見ると、よくわからない話が多い。それは、Web 2.0が基本的に「Webが使うWeb」であり、XMLとかAPIとか、Web開発者や技術系ブロガー向けのトピックが多いからだ。 ティム・オライリーが「Web 2.0とは何か」を書き、Web 2.0ブームを引き起こしたオライリー自体、一般人ではなくギーク向けに本を売ったり、カンファレンスをやっている会社だ。 しかし技術側から見ても、それは包括的で漠然としており、技術タームというよりは、むしろ「マーケティング用語」に近い。 つまり<ギーク向け>であり、いくらか専門的な話であると同時に、<マーケティング>でもあり、ややつかみどころがないのが、「Web 2.0」というものの性質だと思う。 しかし、そんな「Web 2.0」現象を、私は大いに評価している。その<ギーク向けのマーケティング>が、これだけの話題を呼び、ハイプ(誇大宣伝)やバブルに包まれながらも、たくさんの人の「気持ちを動かしている」ことは事実だと思うのだ。 つまり「Web 2.0」の意義とは、「ギークのハートに火をつけた」ことだと思う。それは、自分たちのやっていることに意味を与え、方向性を示し、未来の可能性を感じさせてくれる。 <17日の東京株式市場は全面高の展開となり、東京証券取引所1部全体の値動きを示すTOPIX(東証株価指数)、日経平均株価ともに今年の最高値を更新した。デフレ脱却への期待感から銀行や不動産などの内需関連株が買われたほか、最近の円安ドル高の流れを受けて自動車やハイテク株も上昇した。 終値は、TOPIXが前日比23.99ポイント高い1510.33で、5年1カ月ぶりの高水準。日経平均も同240円92銭高い1万4411円79銭と、4年半ぶりの高値で取引を終えた。売買が成立した株式数を示す出来高は26億株だった。> (大意:きのうイーサン・ダイアモンドとランチした。彼はYahooの開発者で、リーダーの素質を持っている。私は彼に、Yahooはリーダーになれるチャンスがある、と言った。Microsoftよりも、Googleよりも、Yahooはリーダーになれるチャンスがあると思う。MicrosoftもGoogleも、パワーはあるが、残念ながらリーダーとはいえない。) この『現代用語の基礎知識』では、「フランクフルト学派」と「中二病」が同列に並んでしまわないよう、編集者が工夫したわけだ。しかし、ネットではそうはいかない。 「フランクフルト学派」が消えていき、「中二病」のほうが長生きする可能性があるのが、ネットというものだろう。 このブログでは何度か書いているが、「Web 2.0」とは、あたらしいWebの動向を総称する概念にすぎない。 「Web 2.0」の中心的な提唱者であるティム・オライリーは、サービスベースの新しいWebを意味する「インターネットOS」論を何年も前から唱えていて、「データが大事」といった基本主張も以前から言っていた。そこにWikiとかタギングとか、その他の新動向をたくさんつけていって、ふくらませたものが「Web 2.0」だ。 それは技術タームというにはあまりにも包括的で漠然としており、むしろ「マーケティング用語」だ。オライリー自身が主催する「Web 2.0カンファレンス」を盛り上げるための「バズ(buzz)・マーケティング」という側面もあった。 それが広まって一般化し、ニュースやブログで「Web 2.0」というタームが氾濫した。「このサービスはWeb 2.0っぽい」「これは古いのでWeb 1.0だ」といったおしゃべりに便利な概念になった。 それはちょうど、会社で女性社員が「あの人イケメンだよね〜」「あの人はダサい」などと男性社員を論評するのに近い。それは一種の「採点」であり、「格付け」だ。つまり「Web 2.0」とは、「イケメン」みたいなものであり、「格付けのための概念」なのだ。 最近、日本でも「Web 2.0に取り組む」という企業が出てくるようになった。それ自体は素晴らしいことで、Web 2.0など聞いたこともないという企業に比べれば、もちろんはるかにマシだ。しかし「Web 2.0に取り組みます」なんていう声明を自ら出すのは、どうもカッコ悪い気がする。そのカッコ悪さは、男が自分で「私はイケメンです」「私はイケメンを目指します」と言っているようなものではないだろうか。ほんとうのイケメンは、そんなことを言わない。「結果で示す」のであり、「そう言わせる」のだ。 GoogleやAmazon、あるいは37signalsやAdaptive Path、del.icio.us、Flickrといった、Web 2.0の文脈で頻繁に語られる会社やサービスが、「わたしたちはWeb 2.0に取り組みます」などと自ら言っているのは聞いたことがない。「Web 2.0」も「イケメン」も、そう言われることに意味がある「格付けのための概念」であって、自分から言うものではない。 ウォルマートがGoogleを恐れているというこのニュースを聞いて、私はむしろ、ウォルマートの先見性を感じた。 ここ最近のGoogleやApple、Amazonなどの革新的な動きに注目しているのは、いまのところIT・ネット業界の人間と、直接競合に近い立場の人間(注)が中心だろう。 注:Googleなら広告代理店、Appleなら電機メーカーや、音楽業界・レコード店、Amazonなら書店・小売店など。 いまの段階でGoogleを脅威と考え、それを公に発言しているウォルマートは、きっとこれから何らかの動きを見せるだろう。 Googleはたしかに脅威だが、ウォルマートは巨大店舗という物理的な空間をたくさん持っており、そこに毎日たくさんの消費者を集客している。これは大きな強みだ。ウォルマートは、その強みを生かす戦略を考えていることは間違いない。 日本のスーパーやコンビニ、デパートなどの経営者で、Googleの動向に目を光らせ、それを脅威に感じているような人は、おそらくあまりいないのではないだろうか(買収対策はやっていると思うが‥)。しかし、いまの段階からネット技術の新しい動きに注目しておくべきだ。 同様に、レコファンなどの中古CD屋で、自分の好きなCDが300円とかで売られていたときも悲しいです。 よろこんで払う人もいるだろうし、しぶしぶ払う人、他の無料サービスに乗りかえる人など、いろいろだろう。 このペンギン、私はかなり好きで、NOVAうさぎ以来のビッグヒット・キャラになるのではと予想している。 なんか微妙に地味なページにあるし、青島健太とかトレン太くんとかと一緒になっちゃってて、もったいない感じ。 同じくコメント欄で、yukiさんよりSuicaペンギンのボールペンとマグネットが存在するとの情報をいただきました。 同じくコメント欄の、まなさんからの情報で、このペンギンはSuicaのオリジナルキャラではなく、「さかざきちはる」さんの作品『ペンギンゴゴロ』から生まれたとの情報をいただきました。 そしてこの坂崎千春(さかざきちはる)さん、雑誌「ku:nel」のキャラクター「クウネル君」の作者でもあった! どちらかというと、顔が黒くてボディが白い相棒(ひつじ?)のほうが好きですね(笑) あれなんて名前だっけ。 インターネットが出てくる前は、このなかのパブリック空間にあたる部分に、ふつうの個人が入り込むことはむずかしかった。多数に向けて情報を発信する安価な方法がなかったからだ。 情報発信にお金がかかり、マスメディアしかパブリック空間に入り込めないとなると、そこは多かれ少なかれ、「資本の論理」で動くことになる。資本がメディアを「乗っ取る」のだ。マスメディアは有用な情報や娯楽も提供してきたと同時に、「資本の自己増殖ツール」でありつづけてきたことも確かだろう。 「はてなブックマーク」や、「feed meterのブログランキング」などを見てみればいい。マスメディアも個人ブログも横並びで評価された結果、マスメディアがほとんど見当たらないほど、その存在感は薄くなっている。 これらの人気ランキングの母集団が偏っており、「特殊な集団」であると指摘することはカンタンだ。しかし逆にいえば、世間一般の平均的なランキングよりも、先進的なユーザが集まっているぶん、こちらのほうが「未来を先取りしている」とも言えないだろうか。ブログ自体、最初は一部の先進的ユーザしかやっていなかったのだ。 <グーグルやアマゾンを見ていると、最先端のプログラムを駆使しながら、さらにその上を目指していこうとする技術志向とビジネスが結びついていて、それが未来を切り開いていくようなワクワク感を覚える。 それに比べて日本のIT系と言われる企業は、楽天にしてもライブドアにしても、技術の先端で未来を開くというより、企業買収によってビジネス規模を拡大していく手法だ。 これを読んで、「アップル、グーグルは未来をつくっている テレビ局なんか買っている場合じゃない」で書いたのと同じことを感じている人がここにもいた、と思うと同時に、そうか、原型はソフトバンクだったんだ、と思い至った。 孫正義は以前、ソフトバンクの目指す方向を「インターネット財閥」と表現した(『孫正義 インターネット財閥経営―ビル・ゲイツを超える日』)。この「インターネット財閥」こそ、日本のネットベンチャーを理解するキーワードなんじゃないか。 ソフトバンクを筆頭に、ライブドア、楽天、デジタルガレージなどは、多かれ少なかれ、この「ネット財閥」のような方向性を感じさせる企業だと思う。これらの企業に共通する特徴は、 こうしたグループ型の多面的な事業展開は、古くからある銀行・商社系の財閥、新聞・テレビなどのマスメディア、鉄道会社などの事業展開の仕方と似たところがあると思う。 どのくらい多彩な事業をやるか、つまり「本業」を中心とした「事業半径の広さ」には違いがあるとはいえ、例えばトヨタやソニー、キヤノンといった技術系の会社の「事業半径」と比べれば、多彩な展開をしているといってもいいように思う。 「ネット財閥」というネーミングの通り、このような多面的な事業展開の仕方は、実は日本的経営のひとつの「伝統」だったのではないか。事業内容がネットだったり、時にはハードな買収をおこなうという時代的な変化はあるものの、その目指す方向性自体は、むしろ伝統的なものであるような気もする。 巨費を投じてのテレビ局株式の取得、そのお題目は、決まって「放送と通信の融合」だが、そんな面々に冷水を浴びせるような話しが、ジョブズの " One more thing... " なのだ>。 <電波の独占という既得権益によって守られ、下請制作会社の作り出すコンテンツの上にアグラをかき、その著作権を主張し、テレビコマーシャルという大いなる収入源によって成り立つ放送局も「終わりの始まり」なのだ。一つの映像コンテンツに同時に多数の視聴者がいるという仕掛けは、視聴者毎に無数の映像コンテンツがある、という形に変わっていくのだ>。 <米ネット世界の動きが激しい。特にGoogleの動きは急だ。やっぱりこの会社は恐ろしい。Googleに刺激され、シリコンバレー近隣のネット列強Yahoo, eBayの危機感・緊張感は、否が応でも高まっている。加えてオライリーをはじめとする論客による「Web 2.0」つまりネットの次世代ビジョン仮説に関する理論武装も固まってきたことで、ネット周辺でのベンチャー投資意欲、ベンチャー起業意欲も久しぶりに高まりを見せている。ブログ上での真剣な議論も続き、質の高い内容のエントリーもまた増えてきている>。 <そしてふと日本を眺めれば、かろうじてブログの世界やほんのわずかのギークたちだけは、こうした最先端の動きとシンクロしているが、日本のネット列強たるヤフー・ジャパンや楽天は完全に「Web 1.0」のまま不動で「Web 2.0」方向へと戦略展開していく気配は全くない。まぁ、日本のネット列強は、テクノロジーに興味のないビジネス指向性の強いネット列強だから、それも仕方ないのかもしれない。楽天のTBSへの関心はそのことをよくあらわしている。別に楽天という会社がどういう方向に向かおうが個別企業の戦略であって産業全体では別にどうでもいいのだが、日本のネット列強の中に一社も、ネット進化の新しい方向性を体現する戦略を取ってやろうという会社がいないのが寂しい>。 情報が置かれるいろいろな「空間」は、その情報に「誰がアクセスできるか」という点で、次の3つに分けられると思う。 あちこちのブログやニュースなどで、Google BaseはeBay (物品販売)やCraigslist(Classifiedサービス)などの競合になると書かれている(例)。しかしGoogle Baseは、このようなバーティカル(垂直的・分野特化的)なサービスとは「レイヤー」が異なる。 Google Baseもサービスではあるが、それは「技術ベース」に近いものだ。技術的に「ベース」(下部レイヤー)に位置するので、単なる競合というよりも、それはもっと重大な変化を引き起こす。 の2つが進行する。Google Baseは、それ自身がサービスというよりも、サービス開発者に対してデータレイヤーを提供する、というポジションになる。 ブログや掲示板などは無償のものも増えたが、オークション(物品販売)や不動産情報などの「リスティング」サービスは、情報掲載が有償のものが多い。 Google Baseを使えば、リスティングサービスなどかんたんに作れるようになるだろうし、高度な検索もでき、データ量も多いので(登録が無償だから)、既存の有償サービスはいずれ成立しなくなるだろう。 有償でなく、無償で情報を掲載するサービスであっても、利便性の良くないものや、集客力の低いもの、そこにデータを入れておく意味が薄いものは、捨てられてしまう。 さらに、ウワサされている決済サービスまでGoogleに入れば、有償サービスの構築もやりやすくなるだろう。 「Google Baseとは何か?」をひとことで表現するフレーズを思いついたので、忘れないうちに書いておく。 そうではない。ブログでは、「ブログエントリ」という1種類の型(スキーマ)のコンテンツしか入れられないのだ。 Google Baseは、コンテンツ型を自由に定義でき(データベース)、かつそれをWebにのせられる(CMS)。 Google Baseによって訪れるであろう「Webデータの時代」は、わたしたちに何をもたらすだろうか。 以下、これによって発展が加速されるであろうと思われる情報技術について、私が想像するものを3つ挙げてみた。 Webデータの時代では、構造化されたデータと切っても切れないものとして、データの「型」(スキーマ)の技術が発展する。まだあまり普及していないスキーマ技術が、専門的なものから一般的なものへ、大きく羽ばたくだろう(かつてのネットやウェブがそうだったように)。ただその過程で、単純化や変容も起きるだろう。 RSSがブログシーンを変えたように、いろいろなスキーマのオープンスタンダードが、これからどんどん出てくる。その種のものはこれまでもいろいろな業界団体などで作られてきたが、それらが実践の場に上げられて試される。それが委員会的な論理でなく、「使えるかどうか」という適者生存の論理によって、デファクト・スタンダードが決まっていくだろう。 スキーマ技術を突破口として、W3Cなどが地道に進めてきたセマンティック・ウェブの技術が大きく伸びる。スキーマ技術とセマンティクス技術は別のものだが、スキーマレベルを突破すれば、セマンティクスまで一気に進展すると思う。 セマンティック・ウェブの眼目である「意味(セマンティクス)」の技術が発展し、意味ベースの情報処理が一般化する。意味ベースとは、例えば札幌のラーメン屋を登録しておくと、「北海道のラーメン屋」という検索で出てくる、ということだ(このとき、札幌が北海道に含まれるという意味関係を知っている「オントロジー」というデータベースが別にあって、それを使う)。 単語の客観的な意味を網羅したオントロジーが使えるようになれば、ソーシャルブックマークなどで使われる「タグ」なども意味ベースでつながりを辿れるし、オントロジーをWikipediaなどと組み合わせれば、応用はまさに無限だ。 Web上でデータやスキーマを自由に作成できるようになれば、いわゆるボット(ソフトウェアのロボット)の可能性も一気に広がる。ボットが扱うデータをWeb上に置けるだけでなく、ボットというソフトウェア自身の部品になるソースコードもデータとしてWeb上に置けるので、きわめて強力な応用ができそうだ。 人間の代わりに高度な処理をおこなう「エージェント」技術、「電子秘書」みたいなものも、Web上で大きく具体化しそうだ。ここにセマンティクス技術まで加われば、「情報処理」が「思考」に近づくだろう。 先日、似たような話を書いたばかりだが(「クリエイティヴなロジック - 将棋ソフトとMemeorandum」)、この調子であれば、そういう世界はもっと早くやってきそうな気がしてきた。 第1弾エントリでも書いたように、これはおそらく、Googleのこれまでのサービスの中でも最大級に重要なものになり、Webの歴史の中でも大きな節目となるくらい、重要なサービスになるような気がする。 なぜそんなに重要なのか、そしてGoogle BaseによってWebがどう変わるのか、私なりに少し考えてみたい。 なお、以下の記述はGoogle Baseについてすでに出ている情報から、私が理解したり推測したことに基づいた考察であり、これから出てくるGoogle Baseの実際のサービス内容と食い違う可能性があることをお断りしておく。 Google Baseは、Web上でデータベースを作ることを可能にする。ブログのエントリや、ブックマークなどと同列なものとして、イベント情報、お店情報、不動産の物件情報などを置けるようになる。 これらにはURLが振られて、人間が直接見ることもできるし、ソフトウェア向けのWeb APIでアクセスすることもできる。 この2種類のインターフェイス、「人間向けのインターフェイス」と「ソフトウェア向けのインターフェイス(API)」を最初から兼ね備えていることが、きわめて重要だ。 ブログの場合、基本的には人間が見るものとして作られており、「人間向けのインターフェイス」がデフォルトだといえる。しかしそれに加えて、RSSやトラックバックAPIなど「ソフトウェア向けのインターフェイス」が充実してきたことで、さまざまな関連サービスが可能になった。現在のブログシーンの隆盛はかなりの部分、この「ソフトウェア向けのインターフェイス」によってもたらされたといえるだろう。 この両面性を最初から備え、そしてブログのエントリやブックマークだけではない、あらゆる「型」のデータを扱えるのがGoogle Baseなのだ。 本の感想や映画のレビュー、お店の紹介などを書く場合、現状のブログの仕組みだと、サーチエンジン側から見て、その書かれた「対象」を捉えるのがむずかしい。データが構造化されていないので、全文検索してブログの本文から「ほじくり出す」しかない。しかしこれでは、まともな情報は取り出せない。 何かの情報を探していて、「Googleは使えない」と思ったことはないだろうか?その理由がまさにこれだ。現状のWebでは、データが「構造化されていない」ので、全文検索による単純一致しかない。とにかくその単語が入ったページを持ってくるしかないのだ。 Google Baseによって、例えば「本の書評」といったデータを、Web上にそのまま置けるようになる。「本の書評」が、例えば「ISBNコード」「評者」「本文」というフィールドからできているとすると、特定の本についてみんながどんな評を書いているか知りたければ、その本のISBNコードから引くだけで、評がずらっと出てくるのだ。この「本の書評」データを、ISBNコードを含む「本」のデータとあわせれば(技術用語でいえば「join」)、本の書評ポータルになるだろう。 このように、Google Baseはいわゆる「Web API」のレベルを超えて、「データそのもの」をWebに置けるようにする仕組みだ。「サービスの向こう側」にあるデータをWeb APIを通じて取るのではなく、「データそのもの」が取れるようになる。 <日本将棋連盟理事会は14日、同連盟所属のすべての棋士と女流棋士に、公の場で許可なく将棋ソフトと対局しないよう通知したと発表した。「プロ対ソフト」をビジネスチャンスと捕らえている理事会が、なし崩し的にプロが敗れることがないよう歯止めをかけた。 きっかけは9月に石川県小松市であった公開対局。五段の棋士が途中まで不利な戦いを強いられた。危機感を持った理事会は「企画がある場合は必ず事前に申し出をお願いします」と10月6日付の会報で通知。会見で米長邦雄会長は「破った者は除名」と強い決意を示した>。 <将棋の森内俊之名人(35)とコンピューター将棋ソフトの公開対局が23日、東京都江東区の「ホテルイースト21東京」で行われた。プロのタイトル保持者がソフトと一般公開の場で戦うのは初めて。 ハンデは、トッププロがトップアマと戦う時と同じ「角落ち」で、ソフトが中盤まで善戦したが及ばなかった。 22日から開かれていた第3回国際将棋フォーラム(日本将棋連盟主催)のイベントとして行われ、約300人のファンが観戦した。対戦したソフトは、23日の「コンピュータ将棋王者決定戦」で優勝した「YSS」(商品名・「AI将棋」=開発者・山下宏氏)。 対局は初手から1手30秒の早指し。中盤、ソフトが意表をつく勝負手を繰り出して森内名人を動揺させたものの、最後は127手で投了に追いこまれた>。 『サルまん』、なつかしいなあ。Wikipediaの解説によると、スピリッツに連載されていたのは1989年。当時の私は大学2年で、吉祥寺に住んでいた。ラーメン屋とかに置いてあったスピリッツで、『サルまん』読んでいたなあ。 アップされている『サルまん』の一部は、マンガで人物の身体が描けない相原コージに対し、竹熊健太郎が「(別のマンガを)見て描きゃいい」とアドバイスするという、まさに<特にタイムリーな部分>だ。 この中のコラムで、「漫画は一種の象形文字である」という手塚治虫の言葉が引かれている。これは名言では。 マンガを構成する要素は、模写され、パクられながら受け継がれていくという意味で、文字とか単語のように、人類の共有財産と見なすというスタンスだろう。 ではどこまでなら許されるのかとか、独自性の線引きにはむずかしいところがあり、私も答えを持っているわけではない。しかし、「文化を発展させる」というスタンスに立つならば、基本的に「寛容さ」が大事であることは間違いないように思う。 これはソフトウェアやビジネスモデルなどの特許の話にも通じるものがある。保護を強くしすぎると、技術やビジネスの発展そのものが阻害されてしまう(この話は以前、「もし数字の「ゼロ」に特許があったら」で書いたことがある)。 今回の竹熊氏のエントリでは、『サルまん』から<特にタイムリーな部分>を載せたということに加え、もう1つの「メッセージ」がある。このスキャン画像自体が、ネット上で誰かが勝手にアップロードしたもので、それを竹熊氏が再利用しているのだ。それについて竹熊氏は、こう書いている。 「実はちょうどネットでスキャン画像が転がってたのを発見し、そのまま拝借。こちらでスキャンする手間がはぶけました。どなたか存じませんがどうもありがとうございました>スキャンした人」 これは、著者がケビン・ケリー(Kevin Kelly)の文章(『Wired』誌2005年8月号に載った「We Are the Web」の最後の部分)を引用し、それに対して加えた評である。原文は、 たしかにこの部分のケビン・ケリーは、彼のバックグラウンドであろうヒッピー文化、ニューエイジ思想が全開、という感じだ。 ニコラス・カーは醒めたスタンスながらも、「The Cult of the Amateur」(素人のカルト)とか、うまいフレーズをたくさん出してくる。さすが 『IT Doesn't Matter』の人、「冷や水の達人」という感じだ。 Web 2.0も、オープンソースなどと同様、それを推進しているのが「信者による熱狂」だという意味では、まさにカルト(崇拝、狂信)だろう。 コンピュータやインターネット、オープンソースといったものを作り上げたのは、おそらくかなりの部分、ケビン・ケリーのように「イっちゃっている」人たち、「くるってる」人たちだったはずだ。 これはなぜなのか。私がネット中毒により堕落しつつあり、根気のない、ナマケモノになっているのだろうか。 それもあると思うのだが(笑)、おそらく、長いコンテンツというのは、「長い時間を要求する」からだと思う。 長いコンテンツの前で立ち止まり、時間の「お札」を払って、その場でじっくり読むというのは、なかなかむずかしい。 ネットを見る行為というのは、「ネットサーフィン」と言われるくらいで、どんどんクリックして、情報の上を飛び移っていくことだ。この連続的な運動のなかで、長いコンテンツに出くわすと、いったん立ち止まる必要があるので、やや違和感がある。 これが、例えば本とか映画であれば、その対象に没入する準備が最初からできている。時間の「お札」を持って、そこにやってきているのだ。ネットでも、何かについて調べものをするような場合は、これに近い。何かの解説文などは、長く書いてあっても迷惑ではなく、詳しいほうがありがたい。 時間の「小銭」と「お札」の使い分けは、実際にその時間があるかどうかというよりも、気分的なものが大きそうだ。 ブログでも、人気のあるものは総じて「顧客志向」だという気がする。自分の書きたいことをただなんとなく書くというよりも、読む人にとって「価値」のあるものを提供しよう、という姿勢が共通しているように思える。 自分の日記やひとりごと、「チラシの裏」でも全然OK(このmojix.orgも、多分にこっち側です)。 「ベン・ベン・オモ」は、もしたくさんの人に読んでもらいたいなら、そういうのがいいのではないか、ということです。 以前「コンピュータと同じ歴史を歩む人間」というエントリで、コンピュータのコモディティ化と、優秀な人材のコモディティ化が似ている、ということを書いた。 優秀な人材にもいろいろあるが、ここでは優秀な人材を「速いCPU」にたとえたように、比較的ロジカルな優秀さを指している。問題を解いたり、一定の処理をこなすのが早く、その解や到達点が比較的はっきりしているとき、その問題や処理は「ロジカル」なものと言えると思う。 こう考えると、あらゆる「ロジカルなもの」について、これからコモディティ化が進むのではないか、と思える。 ロジカルなものとは、「あると便利なもの」だ。「こういうのがあったら便利だ」と思えるものは、何らかの問題のある状況に対して、ロジカルなソリューションが可能だということを意味している。 それは「Google的なもの」だと言ってもいいかもしれない。IT的なロジックによって自動化・効率化できるものはすべて、Googleあるいはその種の企業・仕組みによって、これから徹底的に自動化・効率化されていく。それはコモディティ化し、インフラ化する。そこで生き残れる会社は、電力会社や鉄道会社のように、巨大な、少数の会社だけだ。 こうしてロジカルなものがコモディティ化され尽くした結果、ロジックでは到達できない「クリエイティヴなもの」が、逆に浮き彫りになってくる。「クリエイティヴなもの」は、ロジックや資本の規模では到達できないので、その主要な担い手は大企業ではなく、「個人」だろう。 肉体労働の多くが機械に置き換えられたように、知識労働の多くは、コンピュータに置き換えられていく。そして、「クリエイティヴ」という神聖な領域が、人間に残されるのだ。 これこそまさに、ノーバート・ウィーナーが「THE HUMAN USE OF HUMAN BEINGS(人間の人間的な利用)」(『人間機械論』の原題)という言葉で語った、人間がその能力を真に発揮できる「人間のための領域」なのかもしれない。 先日「Ajaxは「隠れた技術を表舞台に出す」」で紹介した工藤拓さんが、またしても示唆に富むエントリを書いています。 <注目のエントリーの仕様が、はてブの偏りを助長してるのではを読んでふと思うことがありました。 一般に popularity による quality 評価の性能は、popularity の初期状態に強く依存します。初期状態がよければそのまま正のフィードバックに乗りますが、それに失敗すると shut out されてしまいます。ページの初期のquality なんてそもそも不安定で信頼できません。単に早くページが作られたという理由だけで quality が過大評価されてしまう現象はよくあります>。 <popularity と randomness はトレードオフの関係にあります。前者は今まで知っているページの quality を重視し、後者は今まで知られていないページの潜在的な quality を評価するのに役立ちます。情報検索の precison と recall とほぼ同じ概念です>。 <はてなブックマークも、適切な無作為性を入れると面白みが増すと思います。たとえば、1000人が1000人、同じ注目エントリを読んで、ひとつの方向にバイアスがかかったリストになるよりは、個々が重なりを持ちつつも、少量の別々のページを読むほうが、quality の高いページをまんべんなく収集できそうです>。 「売れている」ということが最大の売り文句になる、という話を聞いたことがありますが、これなどはまさにそうでしょうね。 いったん人気が出ると、そこにいっそう人気が集中していく構造は、「人気の分配」の観点から見ると、一部のものに人気を集中させる効果がある。この結果、「人気の分布」と「質の分布」にズレが生じて、質が高いのに注目されないものをたくさん生んでしまう。 <保護者の7割が、学校よりも塾や予備校の方が優秀と思っている――。内閣府が6日に発表した学校制度に関するアンケート結果から、親たちが現状の制度に強い不満を抱いている様子が浮き彫りになった>。 <子どもの学力向上の面で、学校より「学習塾・予備校の方が優れている」と答えた人が70.1%に上り、「学校」の4.3%を圧倒。現在の学校教育に「不満」「非常に不満」と答えた人が43.2%いた。教員に「不満」な人が28.4%で、「満足」の27.3%を上回った>。 私はIT業界に入る前、予備校の講師をやっていた。なぜ予備校の講師になったかというと、高校の頃、予備校の授業を受けて初めて、学問の面白さに開眼させられたからだ。 「学問の面白さ」というよりは、実際のところは、「受験ゲーム」に近かったと思う。力をつけて、それが模試の得点や順位として、数字に出てくる。それが面白かった。 ゲーム感覚で勉強していたなんて、けしからんと叱られるかもしれない。しかし、それでもいいと思うのだ。まずは、「楽しい」と思えることが大切だ。楽しいから持続するし、楽しくなければ続かない。そもそも、高校で学問を本当にやりはじめれば、逆に受験などできないだろう。受験は野球や陸上などの大会と同じ、数字や結果の出るゲームだと思ったほうがいい。 学校より予備校のほうが面白いとすれば、それは予備校の講師のほうが「優秀」なのではなく、「楽しさを伝える」のがうまいからだろう。そして、予備校とは「受験ゲームの道場」以外の何ものでもない。 以前「秋山仁の思い出」で書いたことがあるが、予備校業界というのはどこか芸能界にも似た、「人気商売」の世界である。人気のある講師はまず間違いなく、芸能人顔負けの「エンターテイナー」だ。「わかりやすく伝える」ことと、「楽しませる」ことは、実は似ているのかもしれない。 こんな話を聞いたことがある。「人に魚を与えると、それを食べればなくなってしまうが、人に魚の釣り方を教えれば、その人は自分でやっていける」。 学校では、勉強を「与えている」感じがする。生徒のほうも、好きでもないのに、仕方なく食べている感じだ。いっぽう予備校では、「楽しさ」を伝えて、生徒をやる気にさせてしまう。楽しいと感じてしまえば、あとは勝手に勉強するのだ。 どんな分野だって、勉強や学習というのは、本来おもしろいものだ。何らかのきっかけでそれに「気づく」ことさえできれば、その世界に入り込める。勉強を教えるのではなく、「面白さ」を教える必要がある。そして、「面白さ」を教えることは、勉強を教えるよりも、おそらくむずかしいだろう。 学校の先生は概して真面目で、優秀なんだと思う。それは小・中・高だけでなく、大学の先生もそうだ。しかし本人がいくら優秀でも、「面白さを伝える」「わかりやすく教える」ことは、また別のスキルだ。学者ならば、本人が優秀でさえあればいいが、教師は「伝える」ことが仕事なのだ。 そして、「働く」という言葉の勤勉な響きに比べて、「売る」という言葉はどことなく下品であり、儲けばかり考えている商売人のようなイメージがないだろうか? しかしいまの私は、「働く」よりも「売る」のほうが基本であり、むしろ「純粋」ですらある、と考えるようになった。 しかし、経済活動の原始的な形態からすると、自分の持ちものや作品、サービスなどを、自分自身で市場に売るほうが、より「基本」だと思うのだ。 自営業の人やフリーランスの人などは、これがわかりやすい。しかし会社に勤めている人でも、会社に対して、自分の労働やサービスを「売っている」。売る相手が市場ではなく、自分が勤めている会社なのだ。 この場合、その売買は市場ではなく、会社と勤め人のあいだだけでおこなわれる。ここでは、市場原理が直接はたらかないので、提供されている労働やサービスの値段(支払われる給料)が、実際の価値に対して高すぎたり、安すぎたりすることが起きやすい。この場合、どちらにしても不都合が生じる。 市場という開かれた場所では、売るのも自由、買うのも自由、値づけも自由だ。値段以上に価値があると見なされれば買い手がつくし、そうでなければ買う人がいない。「神の見えざる手」により、値段は適切なものに調整されるし、競争力のないものは淘汰される。すべてが自由であるかわりに、「保障」みたいなものもない。 私が子供の頃、「はたらくおじさん」というテレビ番組があった。いろいろな職業の人の仕事を紹介するという教育番組で、学校の道徳の時間などに見せるために作られた番組だ。 この「はたらくおじさん」的に社会を見ると、「働く」ことがまず基本で、その一部として、自営業者など「売る」人がいる、ということになるだろう。私たちはまさに、そのように社会を見るよう育てられた気がする。 しかし、そうではないのだ。「売る」ことのほうが基本であり、その一部として、「働く」人がいるのである。 <Ajax は、Web とは無縁だけど別の分野で尖った技術を持っている会社や個人が、その技術や技術力を宣伝したり、新たな可能性や応用を一般ユーザに示すのに役立つのではないでしょうか>。 たしかにAjaxなら、ロジックさえあれば、デスクトップアプリよりもむしろ開発がラクなくらいかもしれない。 技術が発達したら、その技術の提供者よりも、その技術を使う人が恩恵を受ける、という話を聞いたことがありますが、それに似た話かもしれません。 この工藤拓さんは、日本語形態素解析ツール「MeCab」(私もお世話になってます このmojix.orgの日本語全文検索もMeCabを使用)の作者。最近は以下のような強烈なAjaxアプリを公開して、反響を呼んでいます。 音楽の世界では、同業のミュージシャンからも尊敬されるミュージシャンは「musician's musician」などと呼ばれるそうですが、工藤拓さんは、日本が誇る「engineer's engineer」の1人だと思われます。 さらには技術だけでなく、音楽でも、文学でも、ファッションでも、「昔からあったけど、<いま>カッコいい」というものは、どこの世界にでもあるだろう。 私は変人が好きです。はてなが「変な会社」を自称しているように、私にとっても、「変人」は名誉の称号です。 というエピソードや、「第6回 年収の3年ぶんの貯金がありますか。」にある、ラスベガスに1人で行って、 他にも、彼の変人ぶりを伝える面白いエピソードがいろいろ。変人ぶりだけでなく、心打たれる話もたくさんあります(阪神大震災で家が全壊し、借金を背負って、それ以来「生き急ぐ」ようになった話など)。 私は数年前、仕事の打ち合わせで、一度だけ山田さんに会ったことがあります。当時彼は大手監査法人に属していて、とても腰が低く、人あたりのいい若者(そしてイケメン)でした。 あの人が、こんなベストセラー作家になるとは予想もしていませんでしたが、この連載を読むかぎり、たぶんあの人柄は変わっていないんだろうな、と思いました。そして、実はこんな変人だったことを知って(笑)、かなり親しみが湧きました。 <よく考えてみれば、こんな会社が好きだなあとか、こんな人になりたいなあ、と思う時はいつも、少し変な部分に憧れている気がします。周りのインターネット企業の社長さんなんかを見渡しても、やっぱり魅力的な方は「控えめに言って変人ばかり」という気がします>。 <新しい事を始めて、それで世界を変えていくようなことをやろうとするのは、いつも変な人なのかも知れませんね>。 これのマネをしたつもりはないのですが、近藤さんがほとんど同じことを書いていました。まったく同感です。 株などの投資の世界で使われる、「順張り(じゅんばり)」、「逆張り(ぎゃくばり)」という言葉があります。 <市場相場が下落傾向にあるときに買い付けを行い、上昇傾向にあるときに売り付けを行うことを言います>。 投資の世界では、日常にも適用できそうな面白い概念をよく見かけますが、この「順張り」「逆張り」は、特に私が好きなもののひとつです。 需要と供給をマッチングする「市場」というものは、「みんなの動き」みたいなものなので、これを日常におきかえれば、 人間誰しも、社会という網の目のなかで生きていますから、まったく孤立して生きていくわけにはいかない。その意味では、みんなと同じことをする「順張り」が必要です。 でも、いつも人のあとをついていくばかりでは、何か価値あるものを生み出すことはむずかしい。人が見ていないようなところに着目したり、遊びの誘いを断って、孤独に何かを生み出すことも必要です。 私が投資について少し勉強してわかったのは、この世の中で生きていくことは、驚くほど投資に似ているということでした。 自分が持つ有限の時間やお金を何に配分するかは、まさに「ポートフォリオ」です。何に対して時間やお金を出すかを決めることは、まさに「投資」でしょう。 その投資、時間やお金をどう使うのかを考えるとき、みんなと同じようにやるのか、みんなと違うようにやるのか。それが、「順張り」「逆張り」だと思うのです。 マーケティングの首領(グル)、セス・ゴーディンも語っている。中国でも、中国語で語っている。お騒がせ集団37 signalsは、「Web 2.0でないもの」について語っている。本家O'ReillyのWeb 2.0カンファレンスにぶつける格好で、Web 1.0サミットというのも開かれるらしい(ネタ元:yomoyomoさん)。とにかく、あちこちで語られている。Read/WriteWeb、ProgrammableWeb、TechCrunchのような専門サイトともなれば、毎日Web 2.0ばかり語っているわけだ。 このように止まらないWeb 2.0の拡散現象に対し、本家ティム・オライリーが、「Web 2.0とは何か」を書き上げた。これこそ「教典」となるべき画期的な重要文献であることは間違いないが、「Webの新しい動向を全部まとめました」という超・包括的な感じがしないでもない。これに比べると、Web APIを中心に捉えていた私のイメージは、かなり狭かったようだ。 ティム・オライリー自身、Web 2.0に厳密な境界はなく、「引力の中心 (gravitational core)」だという言い方をしている(「1. The Web As Platform」冒頭)。まさにバズ(Buzz)ワード、最新流行であり、次から次へと人が飛び乗ってくるバス、バンドワゴンなのかもしれない。 こう考えると、Web 2.0は音楽における「ニューウェイヴ」みたいなものかもしれない。1970年代末〜80年代初頭、パンク以降にあらわれた新しい音楽動向は「ニューウェイヴ」と呼ばれ、そこには実にいろいろなスタイルの音楽が含まれていた(例えば、ザ・スミス辺りまでの初期ラフトレードの雑多さ)。あたらしい感じであれば、なんでもニューウェイヴになれたのだ。 「Web 2.0」とは、ニューウェイヴと同じように、新しい動向をなんでも放り込んでおくためのコンセプトだ。 はてなという会社について、岡田斗司夫 『ぼくたちの洗脳社会』の議論を引きながら考察している。はてなはディズニーランドのような<「洗脳力」のある企業>であり、ネット上のテーマパークみたいなものだ、としている。 <次々に打ち出されるサービスとはアトラクションであり、ディズニーランドが常に工事中で「永遠に完成しないテーマパーク」であるようにはてなも常に新しいサービスや仕様や不具合を直し続ける永遠に完成しないネット上のテーマパーク、なんじゃないかなと>。 はてなが「テーマパーク」だ、というメタファーは面白い。「サイト」よりも大きくて、どんどん面白いものが付け加わっていく感じが出ている。永遠に工事中(ベータ)というのも、まさにWeb 2.0な会社の特徴だ。なお個人的には、はてなはディズニーランドというよりは、旭山動物園に近い(?)イメージがある。 私は『ぼくたちの洗脳社会』という本を読んでいないが、ここに引用されている部分を見る限り、かなり面白い本のようだ。近いうちに読んでみたい。 まだその本を読んでいないのでわからないが、ここでの「洗脳」という言葉はポジティヴな意味で使われているように感じる。しかし、一般的には「洗脳」という言葉にはネガティヴなイメージも含まれるので、「洗脳」というコンセプトを使い続けると、(「ハッカー」という言葉のように)誤解も生じやすい気がする。 ここでの「洗脳」は、普通の言い方では、「イメージ」や「ブランド」の力、「ブランド価値」みたいなものだろう。「マインド浸透力」と言ってもいいかもしれない。「はてなは洗脳力のある企業だ」、なんて言うとかなりいかがわしい感じだが、普通に言えば、はてなは「ブランド」になった、ということだと思う。 そして、ブランドとかカリスマとかいうものは個性が強いので、ここでの議論にもあるように、どこかしら宗教的・カルト的な色合いを帯びる部分もある。例えばナイキやアップルなどもそういう傾向のある企業だと思うが、ファンや取り巻きがホットなので、外側から醒めた目で見ると、うさんくさいようにも見えてしまう。 個性がブランド化しており、熱狂的なファンがいるというのは、企業としては理想的な姿だろう。ミュージシャンならいざ知らず、ビジネスをおこなう企業が熱狂を生み出すなんて、普通まずありえない。「熱狂を生み出す企業」は、あらゆる企業が目指すべき姿ですらあると思う。企業として問題のあるふるまいをしているなら別だが、見事なサービスによって「カルト的」な熱狂を生み出しているなら、それは文句なしに素晴らしいではないか。 楽しみやサービスを得るには、たいていお金がかかるものだが、逆にお金を払ったからといって、満足できる楽しみやサービスが得られるとは限らない。ましてや、熱狂できるほどの「何か」は、お金で取引できるようなレベルではなく、もっと特別なレベルにある。お金では買えないから「特別」なのだ。 その特別なレベルをいつも見せてくれる、そのマジックを持っている企業が、「ブランド」になれるのだと思う。 のような意味だ。これを混ぜてしまうのではなく、別々に切り離す設計にしておくと、うまくいくと言われている。 かつて、まだブログもなかった頃は、みんな「ホームページ」を作っていた。HTMLを手書きしたり、ツールを使って、ページを1枚1枚作っていた。 この状態では、コンテンツ、デザイン、テクノロジーがごちゃまぜになっている。テキストを書きたいだけだとしても、一応デザインを考える必要があり、HTMLやFTPなどの技術を覚える必要があった。 もちろん、そうして無理やりでも覚えさせられ、経験することにはいい面もある。しかしこれでは、「テキストを書きたい」という単純な目的の達成のために、よりむずかしいプロセスや知識が必要になってしまう。これでやる気がしぼんでしまったり、途中で挫折しやすい面が大きかった。 これがブログの登場・普及により、ただテキストを書くという以外にほとんど何もしなくても、Webにコンテンツを公開できるようになった。 デザインは、それなりにすぐれたスキン、テンプレートがあらかじめ用意されている。デザインが得意な人は、自分でスキンを作って、入れ替えたりできる。 この分業化により、Webにかかわる人間の全方位的なスキル・バランスが失われるという面も確かにある。しかし、これもITでよく言われる「関心の分離(separation of concern)」により、生産性が飛躍的に高まった。 Webをつくるプロセスにおいて、コンテンツ、デザイン、テクノロジーの3つは、やはり「別の仕事」だ。それらは別種のスキルを必要とする以上、1人の人間にその3つのスキルを強制するよりも、設計が分離されて、好きな部分だけできるようになって良かったと思う。 個々の人間のスキル・バランスもたしかに大事だが、この場合、くっついてしまっていた3つの仕事を分けることで、3種類の「価値」が爆発的に解放され、それぞれの領域が大きく発展したわけで、そのメリットのほうがはるかに大きかったと思う。 連日のように報道される個人情報流出のニュースを見てもわかるように、情報がひろがるのを食い止めるのはいつも難しく、コストがかかる。これは、水のなかに落としたインクの拡散を止めるのが難しいのと似ている。 「情報がひろがる」ことを「自然の力」と考えれば、それに抵抗するよりも、スキーやサーフィンのように、その力を活用し、それに乗ってしまったほうがはるかにラクだ。 雨風や天災から身を守る必要があるように、この自然の力に対して、人間の知恵を使って抵抗すべき場面は少なくない。 著者は中根速記学校の理事長で、そこで教えている「中根式」は、日本の四大速記方式(衆議院式、参議院式、早稲田式、中根式)の1つだという。その中根式を元に書かれたのがこの本だ。 このように漢字でできた単語は、「ハン」「バイ」「ゲッ」「カン」のように、音読みが多い。音読みでは、このように「○ン」「○イ」「○ッ」「○ー」のような音が多いので、その2文字目を省略し、上つきや下つき、下線、ひらがな表記などであらわすという方法だ。 以前、カナモジカイや漢字について書いたが、私は日本語の表記方法にとても興味がある。この本を見たときも、私のそのアンテナが「ピンときた」のだった。 まだ途中までしか読んでいないが、ここまでラディカルな「日本語の解体」はちょっと見たことがない。この荒療治を見ると、カナモジカイ流のカナ表記すら、ソフトに思えてくる。 この本で提案されている表記は、通常の表記とあまりにもかけ離れているので、一見、トンデモ本のように見えなくもない。しかし私は、革命的なものを感じた。そしてこの表記自体は使えないと思う人でも、日本語の表記に興味のある人にとっては、面白い論点がたくさん含まれているので、ぜひ一読をオススメする。 この本の想定読者は、マインドマップ(コンセプトマップ、ミームマップ)、ライフハックなどに興味のある「ネット世代の若いビジネスパーソン」だろう。 しかしカタカナをベースにして、促音(「○ッ」)を省略するあたりは、「ケテーイ」といった2ちゃんねる用語にも近い感触がある。2ちゃんねる用語や、ギャル文字をよろこんで使うような若い世代も、この速メモ表記を「感覚的に」すんなり受け入れやすい気がする。 「日本語のカナ表記」は、このネット・ケータイ時代に、福沢諭吉や前島密、山下芳太郎らがまったく予想しなかったかたちで、よみがえりつつあるのかもしれない。 「Web 2.0」という言葉があちこちで聞かれるようになったが、Wikipediaの解説などを見ても、どうも定義がはっきりしない。IT用語とは概してよくわからないものだが、「Web 2.0」というのは定義のある技術用語ではなく、むしろ「動向の名前」に近いので、理解するのが余計むずかしい。 最近ティム・オライリーが作ったというWeb 2.0のミーム・マップ(ネタ元)を見ると、中央に「The Web as Platform (プラットフォームとしてのWeb)」と書かれており、周囲にいろいろな関連トピックがある(これはFoo Campというイベントでのブレストのまとめらしい)。つまりティム・オライリー的には、「Web 2.0」とはまさに、彼がずっと前から言っていた「インターネットOS」論の別名ということだろう。 これらを見ても、大体の方向性はわかるが、「ひとことでいうと、何?」というエッセンスがわかりにくい気がする。 少なくとも、「Web 2.0」を可能にしている中心技術が「Web API」であることは間違いないと思う。「プラットフォームとしてのWeb」が可能なのは、Web上で複数の部品がWeb APIを通じてコラボレートできるからだ。なお、ここではWeb APIを以下の意味で用いている。 人間のためのユーザインターフェイス(いわゆる「画面」)ではなく、ソフトウェアに向けて、サービスやデータを公開するAPI(プログラムのためのインターフェイス、いわば「接続端子」)としてWebを使う方法。技術的には、SOAP、XML-RPCなどのWebサービスだけでなく、REST型のものや、RSS、ATOMなども含む。 つまり、ブラウザで何らかのURLを叩いたとき、普通のページではなくコードみたいなものが出てきたら、それは人間用ではなくソフトウェア用のWeb APIだ。 Web 2.0をドライブするものがWeb APIだとすれば、これがもたらすものは、そのWeb APIを使う「ソフトウェア」が何になるかという点で、 概略 : 従来のブラウザの拡張、新しいブラウザ、ブラウザ以外のデスクトップアプリ(これらをまとめて、ここでは「新しいブラウザ」と呼ぶ) (1)、(2)、(3)と進むにつれて、Web 2.0の「現場」が、サイトの奥、サイトそのもの、ブラウザ、と手前にやってくるので、従来のWebサイトと比べて、ユーザエクスペリエンスがより異質になってくる。 スパムブログとは、ソフトウェアが自動生成・自動更新しているブログだ。検索にかかるようにキーワードを散りばめて、広告リンクをクリックさせる目的で設置されている。スパムメール、トラックバックスパム、コメントスパムなど、一連のスパムのブログ版、いわば「スパムの最新型」だ。 見に行ったサイトがスパムブログだったとき腹が立つのは、なぜだろう。ブログは人間が書くべきなのに、機械的に自動生成されているので、馬鹿にされたように感じるからだろうか。 もし機械による自動生成が腹立たしいなら、Googleのページだって機械で自動生成されている。Googleはすべて自動化されているにもかかわらず、それを見ても腹立たしくないどころか、世界じゅうの人の役に立っている。 自動化とか機械化それ自体は、「技術」に過ぎない。技術は、いいようにも悪いようにも使える「諸刃の剣」である。 スパムブログが腹立たしいのは、自動化されているからでなく、価値や利便性を何も生み出していないからだ。価値を何も提供していないのに、自動生成したページに山ほど広告リンクをばらまいて、クリックさせて小銭を稼ごうとしている。 見に来た人の時間を奪い、不快にしてまでも、自己利益につなげようという、これこそ「Win-Lose」型のビジネスだ。 それだけでなく、インターネットの資源も浪費している。こういうものがさらに蔓延すれば、路上駐車だらけの道路のように、そのうち誰も通れなくなるかもしれない(実際、スパムメールによって、メールはそのようなものになりつつある)。 こういうものに手を出す人は、他人や世間に迷惑をかけても、とにかく自分のお金さえ増えればどんな方法を使ってもいい、と考えているような気がする。 どうせ金儲けの装置を作るなら、時間泥棒のようなセコい「迷惑装置」でなく、Win-Winな価値を生み出し、何度でも使いたくなるような「便利装置」を作ればいいのに、と思う。 <東京に大地震がくるぞとか,いずれ日本国債が暴落して金利が暴騰するぞといった話は根拠を聞くと何だかそういう気分になってくるのだけれども,くるぞくるぞといわれて何年も来ないと「何とかなるんじゃねーの」という感じに感覚が麻痺してくる>。 そう、これは私も思う。日本の財政が破綻するという話は何年も前からあって、総選挙のときも日本の財政に警鐘を鳴らす声がたくさん聞かれた。 素人の私でも、日本の財政が問題ないはずがないことはわかるのだが、どのくらいヤバいのかの「実体」が見えてこない。ほんとうは破綻寸前なのか、それとも破綻しない理由があるのか。 これによれば、松井証券社長の松井道夫氏、楽天証券社長の國重惇史氏が揃って、国債は買うなと言っているらしい。松井氏は、 <日本国がベースになっているものは、とりあえずはずせ、ということ。国債なんて論外。日本円の紙幣を持つのもなるべく必要最小限にした方がよい。日本という国は信用しない方がいい>。 <金融の世界では、理論的にはとっくに価格暴落して破綻しているはずの日本国債がなぜいまだにそうならないのかは最大のパラドックス。理論の部分だけかじって「今すぐにでも破綻するぞ!」って叫ぶのは素人の証拠> とあり、日本国債は理論的には破綻していてもおかしくないが、現実にはそうなっておらず、理論だけでは現状を説明できないようだ。 きのうのエントリ「中国に広まる「の」(発音は「ダ」)」のコメント欄で、台湾でも「の」が浸透しており、ただし読みは「の」のまま、という貴重な情報をboomer44さんよりいただきました。 またこのエントリを受けて、oguradioさんが面白い考察をしています。<中国の消費者も、近年の中国の経済成長に伴い、単なる物質的な豊かさだけでなく、記号的な、あるいは精神的な豊かさ、平たく言うと娯楽的な要素を求める傾向が強まっているのではないか、と私は想像しています>。たしかに、経済成長による一種の余裕が精神価値に向かわせている傾向や、「の」が日本を受け入れるメンタリティを象徴している面はありそうですね。 ここまで来たら、中国・台湾だけでなく、いっそ世界じゅうに「の」が広まってほしいような、そんな気がしてきました。 日本のカルチャーは世界的にも人気があるので、ポテンシャルはじゅうぶんありそうです。「の」という文字は、マルに近くてなかなかカワイイですし、きっと受け入れられるのではないでしょうか。 「友」とか「愛」とか書かれたTシャツをよろこんで着ているガイジンがいっぱいいるわけですから、「の」だってきっとウェルカムでしょう。「友」や「愛」だと、日本人が見るとさすがに苦笑してしまいますが、「の」ならどこかしらクールで、いい感じにユーモラスです。「の」のTシャツなら、ガイジンでなくても、日本人でも欲しいと思うはず(少なくとも、私は欲しい)。 「の」が世界じゅうに広まれば、日本や日本文化の普及にもつながりそうです。「の」には著作権やライセンスもないので、自由に使えるのもいいですね。誰でも自分で「の」のTシャツを作ったり、車に大きく「の」と書いて、街を走ったりできるわけです。 この「の」世界進出計画に賛同してくださる方や、普及のためのナイスなアイディアなどがある方は、コメントやトラックバックをいただけるとうれしいです。 プログラムとデータの境界、ハードウェアとソフトウェアの境界などの話から、<プログラムとデータの間で揺れ動く境界のフロンティア>として、XMLについてアフォーダンスの観点から語っている。 私は「アフォーダンス」については、名前くらい聞いたことがあるだけで、意味は知らなかった。はてなキーワードの説明によれば、<物体の持つ属性(形、色、材質、etc.)が、物体自身をどう取り扱ったら良いかについてのメッセージをユーザに対して発している、とする考え>とある。ほほう、そういうものだったのか。これは面白い。 の2つを兼ね備えているのが特徴で(この説明はラフなので、厳密なツッコミはナシで)、それはよく知られた話だが、このエントリでは2)のほうを一歩踏み込んで、「アフォーダンス」と結びつけた。これはさすが江島健太郎だという気がする。 このXMLデータは、「江島健太郎にメールを出せ」「0387654321にファックスを送れ」などという無数のメッセージをアフォードしてきます。そして、そのメッセージは、オブジェクトシリアライゼーションなんて言葉がわかる技術者だけではなくて、その何百倍/何千倍もいるであろう、データの意味を単にリテラルに読むことができるだけの普通の人たちにも届くのです。この圧倒的なスケール感の広がりこそが、XMLの価値なのです>。 XMLはただのデータではなく、<「江島健太郎にメールを出せ」「0387654321にファックスを送れ」などという無数のメッセージ>を送ってきている、というのだ。これは新鮮な見方だと思う。 「アフォーダンス」とか「アフォード」という言葉は少し難しいので、この考え方をより一般の人にも伝えるために、サンボマスター式に「XMLは君に語りかける」というタイトルにしてみました。 技術情報などを調べるときに、近くの本棚にある本を取ってめくるよりも、Googleで検索したほうが早い、ということはよくある。 もちろん、欲しい情報がすぐネットで見つかるとは限らない。あったとしても、断片的だったり、古かったりして、役に立たないことも少なくない。 しかし、同じ情報がネットにも本にもあったとすれば、地球の裏側にあるサーバよりも、近くの本棚のほうが「遠い」ことは確かだ。 こうなると、本や雑誌の「意味」は変わらざるをえない。しかし、本も雑誌もいまだに、昔と同じように作られている気がする。 本や雑誌の強みは、どこへでも持って歩けたり、PCがなくても、自分の目で、どんな姿勢でも読めることだ。印刷しなくても、最初から物質化していて、触ったり、本棚に並べたりできる。 ネットに対する強みと弱みを前提として、本や雑誌というメディアを考えなおし、「作りなおす」必要があるように思う。 (金額として「350兆円」というのも見ますが、どっちが正しいのか私は知らないので、ここでは340兆円と書いています) 1) Googleを買収する(この案は以前も書きました)。Googleの時価総額がいくらなのかは知りませんが。ちなみに日本最大のトヨタは約17兆円で、トヨタなら20個買えます(トヨタは1個しかありませんが)。Googleを買ってもしお金が余ったら、アマゾンとかイーベイなど有望企業をかたっぱしから買っていく。 2) オープンソースに投資するファンドを作り、オープンソース・ビジネスをやる企業を増やす。ミッチ・ケイパーやマーク・シャトルワースなどオープンソースをリードする投資家と、オープンソースを担うトップエンジニアや論客などをできるだけ日本に集めて、日本を世界最高のオープンソース国家にする。今後、人類が使う情報インフラはほとんどすべてオープンソースになっていくはずです。 3) 世界最強の投資家養成スクールを作る。バフェットとかソロスなどトップレベルの投資家を世界じゅうから招聘。優秀な投資家を育てながら、「実践演習」で340兆円を運用。お金が増えるだけでなく、人材育成とノウハウの輸入ができる。投資はホント勉強になります。 4) 希望する全ての家庭にマイホーム資金を低利(1%とか)で融資する。340兆円なら、日本に3000万世帯として平均1000万円以上貸せる。いまマイホームを持っていない世帯も家賃は払っているはずだから、それほど焦げ付かず、まあまあ返済できるのでは。低利融資なので運用パフォーマンスはいまいちだけど、賃貸ではなく持ち家が増えれば富の局所化に少し歯止めがかかるのと、みんなの安心感が高まることで、労働意欲が増したり、社会不安も少し減る気がする。 要点としては、お金そのものが増えるかどうかよりも、このお金を活用して、どれくらい人材の育成や、外国から優秀な人材を引っぱれるか、また知識やノウハウを高められるか、ということが重要だと思います。いっぽう、4)のようにみんなの生活や安心感を底上げするのも有効だと思います。 つまり、340兆円の運用方法として、お金を増やすことがただうまいだけの外国の投資家などに頼んではいけない。お金だけ増えてもあまり意味はなく、お金ではなく日本に「価値」が増えるように、お金を回せるかどうかが肝心。 雇用はもちろん大事ですが、騒音を立てて道路をほじくりかえすとか、「働いているフリだけでサボっている」ような、無価値な仕事にお金を出してはいけない。ほんとうの価値を創出する仕事にお金を出すべきです。 <日本銀行は8日発表した9月の金融経済月報で、IT(情報)関連分野の調整がほぼ終了し、「景気は回復を続けている」との認識を示した。月報から「IT調整」などの言葉が外れ「回復を続けている」との単純な表現になるのは、昨年10月以来11カ月ぶり>。 私は景気のメカニズムに詳しいわけではないが、たぶん「みんながお金を使うかどうか」で決まるのだと思う。つまり、お金の量そのものではなく、お金の「流れる量」だ。 その意味では、みんなのサイフに「お金があるかどうか」も重要だが(お金がないと、お金を使うことができない)、お金があっても、欲しいものがなかったり、将来に不安があってお金を貯める傾向が強くなると、お金は循環しない。 だから、お金そのものでは景気は回復せず、お金を出したくなるような「キラー商品」があるかどうかが重要なのだと思う。 その意味では、「ちょいワルオヤジ」でムーヴメントを巻き起こしている雑誌『LEON』は、日本の景気回復にかなり貢献したんじゃないだろうか。 きのうiPod nanoを発表したアップルや、人気の旭山動物園なんかもそうだと思うけど、こういう「キラー」なものがどれだけ出てくるかが、日本の景気回復のカギだと思う。 日本はお金ばかり持っていて、いろんなことがお金だけで解決すると思っているフシがある。『LEON』やアップル、旭山動物園などを見習って、お金ではなく「価値」のほうを強化すべきなんじゃないだろうか。 価値を生み出すには、お金や地位や権力は役に立たず、自分自身がクリエイティヴになる必要がある。お金や地位や権力のまわりには、お金や地位や権力が欲しい人しか集まらない。クリエイティヴな人のまわりには、クリエイティヴな人が集まるものだ。お金や権力では、「心を奪う」ことはできない。 逆説的なようだが、「お金でなんとかなる」という発想を脱却したときに、ほんとうに景気が回復すると思うのだ。 <仮想空間の内部に、Webを見るための窓を置くことによって、その窓は仮想空間の物理法則に支配されることになる。 たとえば、現実世界だと、「Webページから、ボールが飛びでてきて、自分の部屋の中をころがる」とか、「Webページに油を注いだら燃えた」といったようなことは起こりえない。 しかし、仮想空間内Webブラウザだと、javascriptでちょっとしたスクリプトを走らせると、ブラウザからボールを飛びださせることも可能だ。画面がそのままカメラになったり、 仮想空間がサポートしている物理法則をふんだんに利用したWebサイト作りが可能になる。 ほかにも、仮想空間内のロボットが、自動的にWebAPIにアクセスして、複数のWebサービスを勝手に統合して、Web2.0のようなことを、仮想空間内の物理法則を利用して行なうなど。これはかなり面白い>。 ゲーム自体の独自なストーリーやデータを見せるのではなく、Webをはじめとする実世界のデータをとりこんで、立体的・空間的な仮想空間のなかで見せるという方向だ。 市場から4,000億円以上の資金を調達するGoogleが、次にどんな会社を買収するか、梅田さんが予測。 <最近は、Google内部の技術マネジメントとビジネスマネジメントが、別々のロジックで動いているような気がする(あくまでも直感だ)。よって技術サイドがあまり関心を持たないような(逆にいえば、技術サイドを邪魔しないような)、ビジネス拡張戦略のための、たとえば広告代理店的なリアル企業の大型買収が、ひょっとするとあるのかもしれないという気がする。ここは大外れの可能性がある>。 <またYahooはFlickrを買ったし、Ask JeevesはBloglinesを買った。けれどGoogleは、そういう会社を買うことはたぶん一度も考えたことがないだろう。そんなもの、必要なら自分たちですぐに作れると思っているし(たぶん作っているだろうし)、そうすべきだと考えているに違いないからだ。だからGoogleはTechnoratiやdel.icio.usを欲しいとは思わない。電通なら欲しいと思うかもしれない。そういうことだ。 先日のエントリ「Googleが技術雑誌の広告ワクを再販 - 広告代理店事業への布石か」で、今後のGoogleは電通・リクルートと競合するかもと私は書いたが、実は内心「買収するかも」と思っていたのだ。梅田さん、ズバリ書いちゃったよ〜(もちろん、あくまでも想像・妄想の範囲だと思いますが)。 あるいは、テレビ局まるごとっていうのもアリかと思う。CMワクだけじゃなくて、放送局まるごとお買いあげ。GoogleはカレントTVとも組むようだし、少なくとも何らかのテレビ戦略を考えていることは間違いないと思う。 <ひとたび貧乏になったら、その子供はもちろん子々孫々まで貧乏から抜け出せない――日本は今、そんな「階級社会」に突入しようとしている。本屋に行けば「不平等社会日本」「日本の不平等」「しのびよるネオ階級社会」といったタイトルの本が並んでいる。「昔から貧富の差はあったし、オレはそこそこの収入がある“中流”だから大丈夫」なんてタカをくくっていると大変なことになるぞ。 前述の「しのびよるネオ階級社会」の著者で、階級社会が今も続く英国で長くジャーナリストをしていた作家の林信吾氏がこう言う。 「日本でも成果主義の導入で親世代の収入格差が拡大し、それが子供世代の教育格差につながり、その格差が世代を超えて固定化しつつある。言い換えれば、特定の階層が“おいしい仕事”を世襲的に独占する社会になりつつあるのです」 かつて士農工商や自作農・小作農といった“階級”があったが、平等とされてきたサラリーマンの間で「ネオ階級社会」が形成されつつあるというのだ。 確かにそれを裏付ける統計がある。昨年末に発表された経済開発協力機構のリポートによると、日本では1世帯あたりの平均所得(476万円)の半分以下しか稼げない貧困世帯が15%を超え、この10年で2倍近くに膨らんだという。日本の貧困率はメキシコ、アメリカ、トルコ、アイルランドに次いで5位。 一方、国税庁の調査では年収2000万円以上のサラリーマンは10年間で2万人も増えた。所得格差は確実に広がっているのだ>。 ちょっと「煽り」入った書き方だと思うけど、いろいろ面白い問題提起になっていて、考えさせられるニュースだ。 資本主義であれば、お金が自己増殖する仕組みからいって、勝ち組がますます勝つという「お金の力学」から逃れられない。これによって、多かれ少なかれ階級化するのは避けられないと思う。 それがあまり極端になると、社会がうまく回らなくなる。流通すべきお金が局所化して価値の生産・流通が停滞したり、幸せでない人が増えて、社会不安が増大する。よって、法律や政治などの「社会工学」で、そうならないようにある程度はコントロールする必要がある。 私もおかしな平等主義は大嫌いだし、市場という「神の見えざる手」は素晴らしいと思うのだが、放っておいても最適な社会が立ち上がってくるほどの万能性は、いまの市場にはないと思っている。 PICSY(伝播投資貨幣)のようなお金ができれば、いまよりも「賢い(かしこい)」市場ができるかもしれないが、いまの市場は、そこまで賢くない。放っておくと階級化するのは、いまのお金の「原始性」が主な原因だと思う。 良くも悪くもそれが現実であり、「ゲームのルール」なので、「金持ち父さん」的なマネー・リテラシーは絶対に必要だろう。ただ、それだけに没入しては「マネー・ゲーマー」なので、社会に貢献できる自分なりの「価値」を発揮するために、それ以外のさまざまなスキルも必要になる。 その意味で冒頭のニュースは、階級の原因を教育に求めている点は、基本的に正しい着眼点だと思う。しかしこれが「学校教育」であるらしいところが、ちょっと古い気がする。 すでに、学歴は役に立たない。履歴書でなく、ほんとうに身についたスキル・リテラシーで勝負がつく。いまどき学歴で差別しているような会社があったら、滅びるのは時間の問題だろう。 学歴があればなんとかなると思っているのは、むしろ親のほうではないだろうか。学歴のために尻を叩いて勉強させるよりも、子供の好きなもの、興味やスキルを伸ばすスタイルのほうが、今後はうまくいくと思う。 <商品やサービスと同じでお金もニーズがないと、いくらお金を供給しようとしても借り手がありません。つまり需要が伸びてこず、貸出先もないままにどこかに眠るしかなくなります。実際、日銀はゼロ金利の超金融緩和政策をとってきましたが、それでも資金需要が思うように伸びず、また経済活性化の効果が目に見えてはでてこず、しかもデフレに歯止めがかかりませんでした。だから金融緩和だけでなく、さらにお金をどんどん発行してお金の供給を増やそうとしてきましたが、こっちもお金に対するニーズがなく、流そうとしているノルマが達成できていません。じゃぶじゃぶ流そうにも流れない。それが日本の経済の現状です。 なにか大きく儲かる事業の見通しがあれば、お金を借りて投資しようとしますが、これだけ低成長の時代、しかもデフレ圧力が強い時代にそうそう儲かるビジネスが潤沢にあるわけではありません>。 これだけでなく、最近は「資金が余っている」という話をよく聞きます。株や不動産投資、REITなどの人気を見ても、それは伝わってきます。早くもバブってきてるのかと思うほどです。 しかし、投資するほどたくさんお金を持っているのはやはり一部の人であって、大半の人は、あまり余裕のない暮らしをしているはず。私のところにも、もし資金がありあまるほどジャブジャブあったらさぞや楽しいだろうと思うのですが、残念ながらありません。 この「お金があまっている」とはどういうことなのか、私がちょっと考えたことを書いてみたいと思います。これは郵貯・簡保の340兆円の話や、郵政民営化の話と直接は関係ないですが、まったく関係ないわけでもないと考えています。 Googleが技術雑誌の広告ページを買い取って、コマ切れにしてAdWordsの顧客に再販するという。 いまや、WebのいたるところにGoogleのAdWords広告が見られるようになったが、これと同じことを、雑誌でもやろうということかもしれない。 これは何を意味しているだろうか? Googleはおそらく、広告代理店事業に進出しようとしているんじゃないだろうか。 こうなると、Googleはもはや、Microsoft(技術)やYahoo!(サービス)などと競合するだけではない。日本でいえば、電通やリクルートなどとも競合になってくるのではないか。 Google Financeとか、GoogleNetなんていう話もあるし、Googleが強すぎて、シリコンバレーの生態系にも影響が出ているという。 おそらくGoogleは、物質の移動が起こらず、ソフトウェアで自動化可能な、情報完結型のあらゆるサービス(決済や金融なども含めて)に進出しようとしているのだと思う。 シリコンバレーの住人でなくても、Googleと競合しない方法について、真面目に考える必要がありそうだ。 <前に自分のエントリ仮題 nikki - there is no WIN-LOSEで引用したが、交渉毎に於いては、Win-Loseの関係とは成り立たない。どちらかがLoseとなる場合には必ずその場所でWinと思っている立場の人も最終的には不利益を被ることとなる>。 <「前略・・・ 制約条件の理論では、そんなことはあり得ない。Win-Loseのシチュエーションなど存在しないんだよ」 この話しを読んだときは、単純にシチュエーションとして有るのはWin−WInかLose-Loseの関係しか存在せず、小さな場面ではWin−Loseの関係になったとしても大きく考えるとLose-Loseの関係にしかならないのだなあと思った物である>。 一時すごい話題だった『ザ・ゴール』、物語で教訓を語るという形式が個人的にあまり好きじゃなくて、軽く立ち読みしただけで通り過ぎてしまったんだけど、こんなにいいこと書いているなら、読まないと。 よく「Win-Win」っていわれるけど、その前提には、たいていの勝負は「Win-Lose」関係だということがある。しかしその「Win-Lose」関係は成立しないというんだから、面白い。 よく考えれば、その通りだと思う。Loseと思った人は、以後そこに関与しないだろうから、その関係・構造は長続きしない。 客をだますような商売は、一時的には儲かるかもしれないが、その客は二度と来ないので、先が続かない。客によろこばれるような商売のほうが、一回の儲けは少ないかもしれないが、何度も来てくれるので、そのほうが儲かる。 これはビジネスだけでなく、かなり普遍的な真理なのではないか。よく環境問題などで言われる「サステイナブル(sustainable、持続可能な)」というのも、これだと思う。 目先の利益で地球環境に悪いことをやっていれば、人類の崩壊につながる。環境や生態系を維持しながら、「地球と一体になって」やっていく方法でなければ、長くは続かない。 コミュニティ・エンジンの中嶋謙互氏が、CEDEC 2005でワールド・シンセサイザーについて発表したという。 <シンセサイズ(シンセシス)とは、何かすでにあるものを合成してあたらしいものを作りだすことだ。たとえば、楽器の「シンセサイザー」は、基本音波(サイン波など)をいろいろに合成して、面白い音を作りだす装置だ。ワールド・シンセサイザーは、物質保存則や拡散などの熱力学の法則、生物の遺伝のしくみ、時間の流れ、セルオートマトン空間、力学演算エンジン、スクリプトエンジン、3Dビジュアライザなどの基本要素をユーザーが自由に組みあわせて、新しい世界を作る装置のことだ。ワールド・シンセサイザーを使って、ユーザーは、音色を作ってもいいし、メロディを奏でてもいいし、複数人でアンサンブルしても面白いだろう>。 <惑星サイズから微生物まで。氏の提示する「風景」は、環境シミュレータに求められる複雑度と情報量に果てしがないことを示す> 世界を自然言語ではなく物理シミュレーションで描写すれば、物理法則などの科学法則はパラメータに過ぎなくなる。そのパラメータをいじれば現実から遊離するが、その「世界」は現実世界とパラメータが違う以外、「現実世界と同じ要素でできている」。 これが分析哲学でいう「可能世界」であり、このときの「要素」が、広い意味での「言語」だ。現実世界を描写する物理法則も、数学という「言語」で記述されている。ここで数学という言語自体は、いかなる「現実」とも関係がない。 このときの「世界」と「言語」の関係において、「言語」をマルチメディア的に精緻化していくと、「ワールド・シンセサイザー」のようなものになる。 彼は先日、原爆を言葉ではなく、ゲームのように物理シミュレーションして残し、広めてはどうか、という趣旨のことを書いていた。 けっきょく「言語」というものが、それによって現実を構成・描写できる「シンセサイザー」なのだ。言語という同じもので、ノンフィクションとフィクションを両方書けるのはそのためだ。 GoodPic.com : デジタル・ネイティブ = ミームとしてのWeb 2.0と、Hypeとしてのドットコムの違いを知る Wikipediaなどのオープンコンテンツ、RSSリーダーなどのツールを使いこなしながら、従来的な教育スタイルとは違う、インターネット的な新しいスタイルを提案している。 いまの子供たちは「デジタル・ネイティヴ」、「テクノロジーの中に生まれた」世代であり、「ハイパーテキスト・マインド」を持っている。 CNET Japan : A・カリーの新興企業、ポッドキャスターやアーティストのためのネットワークを設立 <MTVの元ビデオジョッキーAdam Curryらが設立したポッドキャスティングの新興企業PodShowが、ミュージシャンやポッドキャスターのためのネットワークを立ち上げた。 米国時間23日の発表によると、同社が設立した「PodSafe Music Network」では、ポッドキャスターに音楽関連のコンテンツやツールを提供し、彼らがロイヤリティ・フリーのポッドキャストを作成するのを支援するという。ミュージシャンは自分の楽曲のプロモーションに同ネットワークを活用できる。一方でリスナーは、1回だけ再生可能な形式またはポッドキャスト形式で楽曲を聴くことができるという。 ポッドキャスティングとは、ラジオ番組のような音声コンテンツをウェブを介してユーザーに配信する技術のこと。ユーザーはコンテンツをコンピュータや携帯音楽プレイヤーで再生できる。PodShowは2004年にCurryとRon Bloomが設立した非公開企業。そのPodShowが先週ベンチャーキャピタルから885万ドルの資金を調達したことは、ポッドキャスティングへの関心の高まりを象徴する出来事だった>。 これは面白い。コンテンツそのものや配信技術だけでなく、「コンテンツの作成を支援する」ところがいい(その点では、ゴアの「カレントTV」とも似ている)。 ポッドキャスティングは最初、デイブ・ワイナー(ブログの先駆者、RSSの生みの親)とアダム・カリーの2人が「顔」だったと思うが、ここでアダム・カリーが果たした役割は大きかったと思う。MTVの元ビデオジョッキーという「プロ」のスキルで、ポッドキャスティングというメディアの可能性を見せつけた。 私は初めて彼のしゃべりを聴いたとき、「これはテレビやラジオと同じだ」と思った。ここで気づくのは、テレビやラジオを製作しているスタッフのスキルが、いかに高かったかということだ。 つまり「テレビやラジオっぽさ」を成立させているのは、「製作スキル」だったのだ。逆にいえば、しゃべりや製作のスキルさえあれば、ネットだろうと弱小メディアだろうと、テレビやラジオとまったく互角に戦える。 「マスメディアと互角」という意味では、すでにブログが先行しており、プロのジャーナリストやライター、専門家も顔負けのブログがたくさんある。 これと同じことが、ポッドキャスティング(音声配信)やブイログ(動画配信)でも起きてくれば、テレビやラジオの「王座」は崩れるだろう。 これに気づき、アダム・カリーのように「マスメディアからネットへ転身」する人が、日本でもこれから出てくると思う。 <市場が拡大するインターネット経由の音楽配信サービスについて、6割以上の人が1曲あたりの利用料は100円以下を望んでいる。調査サイト「iMiネット」を運営するライフメディア社のネットでの調査で明らかになった。現在は1曲150〜200円が相場となっており、多くの人は割高だと感じているようだ。 音楽CDの将来についての質問には、4割の人が「10年後以降も使われる」と答えた。ただ、3割が「10年後に使われなくなる」、2割が「5年後」、1割弱が「3年後」と、6割の人がCDは近い将来無くなると回答した>。 音楽のダウンロードは無料にしたほうがいいと考えている私にとって、1曲100円以下を望んでいる人が6割というのは、驚くべき結果ではない。 mF247やYahoo!の無料配信が注目を集めているのを見ても、そのうち100円どころか、無料でないと話にならない、と誰もが考えるようになると思う。 いっぽう、CDは近い将来(10年以内に)無くなると回答したのが「6割」というのは、私にとっては驚きの数字だ。 私がダウンロードを無料にすべしと考えるのは、音楽CDというものが残り、そこをビジネスにできるから、と考えてのものだ。CDがなくなるならば、ダウンロードを無料にできるはずがない。 とはいえ、音楽そのものは本来、物質と関係がない「データ」であることも事実だ。その点では、テキストや写真、動画、ソフトウェアなどと同様だろう。 <ブランディングの基本に真っ向から反抗するようなネーミングをする人たちが、政治家にはまだまだ多いのに、本当に驚いたので、ここで短めに書く。 「ネーミングにおけるブルーオーシャン戦略」で書いたように、私は独自性の高い、目立つネーミングが好きだ。 しかし政党となると、あまり独自性の高いものや、意味のわからないもの、つまり「カッ飛んだ」ネーミングは難しそうだ。 「ヤフー」とか「はてな」とかは、会社の名前ならいいが、そんな名前の政党があったら、キワモノ扱いされてしまうだろう(私は好きだけど)。 政治を担う政党というものは、そのネーミングにおいても、「自由」とか「民主」のような、ある程度の「一般性」というか、「常識」みたいなものが要求されるのだろう。 とはいえ、名前というものは「識別」のためにあるので、「日本」のようなあまりにも一般的な概念・名称を流用するのは、識別性が下がり、逆効果だ。それが、この小川さんの指摘だろう。 <自民党が自分たちを自由民主党、と音読した場合、民主党は結構ツラくなる>、という指摘も面白い。まさに、「自由」とか「民主」といった一般概念、「美しい言葉」を、政党間で取り合っているような感じだ。これこそ「レッドオーシャン」であり、言葉の争奪戦である。 Googleに負けじと、A9も地図サービス開始。以前「A9 Yellow Pages」で書いた、<トラックにコンピュータで制御されたカメラを載せて街を走らせ、撮影したもの>を使っているらしい。 ここまで来れば、ソフトウェアの「ボット」でなく、「本当のロボット」が街に繰り出して、辺りを撮影しまくる日も遠くない気がする。 <Googleは米国時間11日、著作権が保護されている図書館の書物をスキャンしてデータベース化する取り組みを、一時的に中止する予定であることを発表した。 2004年12月に始まったこのLibrary Projectは、絶版となった著作権物をスキャンし、Googleの検索エンジンデータベースに登録して検索可能とするもの。Googleは、スタンフォード大学やハーバード大学といった複数の大学の図書館と協力して、プロジェクトを進めている。 同プロジェクトに対しては、出版社を含む一部の組織から、Googleが行おうとしていることは著作権の侵害だとする批判が出ていた。 米国時間11日、Googleは同社のブログで、「出版社、出版業界団体および著者」と協議した結果、11月に「Google Print Publisher Program」を変更するまでの間は、著作権物のスキャンを見合わせることにしたと述べた。> これは図書館の絶版書籍が対象のようだが、Amazonの「Search Inside the Book」と同様、なんにせよ、地球上のあらゆる書籍をスキャンし、ネットにのせるという流れは今後も止まらないだろう。 よほどのベストセラー以外、書籍の売上げなんてタカが知れているから、中身をネットに載せてしまってリーチを拡大したほうが(例えば100倍)、ビジネスとしても成功すると思う。 音楽もそうだが、本のような情報複製型の商品は、たくさん「立ち読み」させたほうが儲かるという意味で、顧客とベンダーがWin-Win型になる。 タダで見せることによるデメリット(タダで見れたおかげで買わなくなるという機会損失)よりも、タダで見せたことによるメリット(見たことにより欲しくなって買うという機会発生)のほうが、10〜100倍くらい大きいはずだ。 それでも公開しないことを選ぶ出版社や著者もいるだろうが、大半のところが公開してしまえば、淘汰されてしまうだろう。 本に関しては、かつてナップスターがやったようなことを、AmazonやGoogleが先導しているようなものだ。 現在の音楽ダウンロードのように、完全無料ではなく小額の課金ということになるかもしれないが、そこまで来ればプライシング(値付け)やビジネスモデルの話であり、「のせる」という方向が正しいことは間違いないだろう(そしてそうなれば、遅かれ早かれ無料になる、というのが私の考えだ)。 梅田望夫さんのブログに、丸山茂雄という<産業界の大御所、大ベテラン>が、はてなダイアリーでBlogをはじめたという記述があった。 これはまさに、私が「曲のダウンロードをいっそ無料にしてはどうか」や「コンテンツを無料にすればリーチは100倍になる、とセス・ゴーディンも言っている」で書いてきたこと、まったくそのままじゃないか! すでに同じ考えを持ち、これに向けて動き出した人がいて、それが日本の音楽業界の首領(ドン)のような大御所であったとは、まったく驚きだ。 1)は、いちばん基本的なブックマークとしての使い方だ。ブラウザよりもネット上にあったほうが便利だし、投げ込むだけで時系列に整理され、タグもつけられる。この使い方の場合、自分のためだけのものなので、ほんらい公開する必要はないものだ。 2)は、自分のためもあるが、「情報発信」になっている。「自分がいいと思ったので、みんなにも紹介したい」という気持ちだ。ソーシャルブックマークが出現する前は、こういう場合、自分のブログや日記でエントリを書くしかなかったが(いまでもそれはおこなわれている)、わざわざエントリを起こすほどでもない場合、ソーシャルブックマークに入れることで、軽い紹介ができる。「ミニブログ」的な役割だ。 3)は、すでに注目エントリになっているものについて、自分もコメントをつけることで、「参加」する感じだ。これはブックマークやブログよりも、「掲示板」に近いノリになってくる。1行しかコメントをつけられないが、匿名ではなく発言者がわかり、その人のブログをすぐ読めるという良さがある。 以上の3つの機能が重なり合っているために、自分の目的や好みにフォーカスしきれない部分もあるにせよ、だからこそ逆に「出会い」や「発見」がある。 私自身は、3)の「波に乗る」面白さよりも、2)の「波を起こす」仕組みのほうに興味があるのだが(先日の「「はてなブックマーカーランキング」が意味しているもの - イノベーション志向のランキング・アルゴリズム」も、そのような興味の軸に沿って書いている)、しかし1)から3)が連続的につながっているところがミソで、それが面白さを作り出しているのかもしれない、とも思う。 日本のブログ界にも政治ブームか / ホリエモンと小泉純一郎 / 政治広報戦略も「マス」から「バズ」へ おとといの郵政民営化法案否決・衆院解散を受けて、ブログでもこの話題が増えてきた。日本のブロガーがここまで政治を話題にしているのは、初めて見る気がする。 この感じは、ライブドア・フジ騒動のときの盛り上がりと似ていると思う。あのときは、ビジネスや経済に強い人やまさに本職の人が、マスメディアよりも早く、充実した解説をどんどん書いて、多くの人がそれを熱心に読んだ。 今回の解散総選挙でも、それと似たような盛り上がりが起きつつあると感じる。これまでであれば、テレビや新聞などのマスコミが主な情報源だったが、今回はそこにブログも有力な情報源として加わってきた。 解散総選挙へ至る経緯もなかなか劇的なものがあったし、ライブドア騒動でホリエモンがいたように、今回も小泉純一郎という役者がいる。保守層に反旗をひるがえし、反感を買う強気発言もするが、筋は通っており、ドン・キホーテ的に突き進むというところで、この2人は案外似ている気もする。 あちこちで報じられているように、先日から日本でも開始されたアップルの音楽ダウンロード販売「iTMS-J」(日本版iTunes Music Store)が、4日で100万曲販売を突破したとのこと。 <これは「世界のiTMSの中でも異例の早さ」と、米Apple Computerのアプリケーション担当バイスプレジデントで、先日日本で設立されたアイチューンズの代表取締役を務めるエディー・キュー氏は言う>。 いまはサービスが始まったばかりなので、過渡期なのかもしれないが、これに1曲150円払う人というのは、 私の感覚では、1)というよりも2)だ。考え方が古いのかもしれないが、曲のデジタルデータだけ入手しても、レコード屋での試聴やCDレンタルの延長のような感じで、「そこで終わる」最終プロダクトとはちょっと考えられない。 「曲のダウンロードをいっそ無料にしてはどうか」というのも、そのつもりで書いている。このエントリにkohさんがつけてくれたコメントによれば、USでは音楽配信は有償なプロモーションだという考え方が定着し始めていて、CDの売り上げも上がってきている、とのこと(これに関するURLなどありましたら、ぜひ教えてください>kohさん)。 そう、音楽レーベル側からいえば「有償なプロモーション」であり(だからいっそ無料にしたほうがいいと思うわけだが)、リスナーからいえば「ちょっと聴ける利便性を買う」、という感じだ。 私は「アルバム派」なので、そもそも「曲」という単位で音楽作品を考えていない、というのもあるかもしれない。気に入った音楽は、アルバムで買うまでは、「入手した」感じがしないのだ。 その理由のひとつとして、いまのネットには「過去についてのコンテンツ」が少ない、ということがあるのではないか。 ブログにしても、ニュースサイトなどにしても、基本的に「ニュース」であり、つねに最新の話題がフロー的に提供されていく。それにみんなが反応していくことで、新しいコンテンツがますます増殖していく。 そんな流れの中で、過去についてのコンテンツが突然アップされるという機会は、あまりなさそうだ。何か最新の話題に引っかけるのでもない限り、過去について突然書くのは、やや唐突な印象を与えるだろう。 しかし、いつも最新の話題ばかりがアップされ、それにみんなで反応していくという状態が続けば、「新しいけれども薄いコンテンツ」の洪水がおき、「古い良質なコンテンツ」は、ほとんど「存在しないも同然」になっていくのではないか。 漢字は字数があまりにも多く、また、使い方も音読み・訓読みそれぞれいろいろあり、規則性がなさすぎて学習にムダな時間がかかり、しかも日本語の本来のすがたをゆがめています。また、もとからの日本語にたいしては、漢語の乱用の結果、これにおきかわってしまい、そのため聞いただけでは分かりにくい言葉が多くなっています。 漢字をあつかうことのできるパソコンやワープロの出現により、漢字による事務の非能率についての問題も解決されたかのように考える人もいますが、漢字変換をしなければなりませんので非能率はかわりません。 カナモジカイは、この問題に早くから気がついた人たちにより、1920年に創立され、日常使う文字としては、漢字を廃止して、横書きのカタカナを用いることをことを訴えて運動してきました。世間ではカタカナは読みにくいと感じる人が多いのですが、これは書体の改良によって解決できます>。 私がこのカナモジカイのことを初めて知ったのは、たしか数年前、小泉均のタイポグラフィの本を読んだときだ。 最近だと「ベンチャー」とか、昔なら「零細企業」など、小さい会社を指す言葉はいろいろあるが、少なくとも何人か社員がいるのが普通だと思う。 1人だと、とにかく1人しかいないわけだから、社長から営業、経理、マネージャー、開発、総務、雑用まで、ぜんぶ1人でやる。会社といっても、いわゆる「フリーランス」の人と同じような境遇だ。 すべてを自分でやるという、このたいへんさと面白さは、きっと経験しなければわからないだろう。すべてを自分でやり、すべて自分の責任だが、すべてを自分で自由にコントロールできる。 <成功すれば、ぼくもお金持ちになるはずですし、そのために着々と準備をしています。お金の使い方を知っていれば、お金を持つことは悪いことじゃありません。ぼくはお金の使い方を知っていると思っているので、お金持ちになろうと考えています。 たとえば、ビル・ゲイツくらいお金があれば、まず、荒川修作と宮崎駿と養老孟司に1000億円くらい使って町をつくってもらいたいです。こいつは完全に社会実験ですが、やるだけの価値はあります>。 1000億円あったら<荒川修作と宮崎駿と養老孟司に町をつくってもらう>というブッ飛び具合、荒唐無稽さが彼らしい。 <宇宙旅行は二千万円〜二十億円くらいかかりますが、市場が立ち上がる初期に、そういう消費活動をするということは、投資活動をする以上の価値があります。かれらの消費によってベンチャー企業の採算がよくなり、コストダウンにつながることによって庶民が宇宙旅行にいける時期が早まるからです>。 「消費は投資だ」という視点は、普通なかなか持てないが、これこそお金の本質につながっている見方だと思う。 <日本の場合、インフラは世界一になったが、インターネットは善悪でいえば「悪」、清濁では「濁」、可能性よりは危険の方にばかり目を向ける。良くも悪くもネットをネットたらしめている「開放性」を著しく限定する形で、リアル社会に重きを置いた秩序を維持しようとする。 この傾向は、特に日本のエスタブリッシュメント層に顕著である。「インターネットは自らの存在を脅かすもの」という深層心理が働いているからなのかもしれない。 アメリカが圧倒的に進んでいるのは、インターネットが持つ「不特定多数無限大に向けての開放性」を大前提に、その「善」の部分や「清」の部分を自動抽出するにはどうすればいいのか、という視点での理論研究や技術開発や新事業創造が実に活発に行われているところなのだ>。 <日本もそろそろインターネットの「開放性」を否定するのではなく前提とし、「巨大な混沌」における「善」の部分、「清」の部分、可能性を直視する時期に来ているのではないか。「日本がアメリカよりも進んでいる」という前提で物事を発想できる若者たちが大挙して生まれたことは、日本の将来にとっての明るい希望なのだから>。 「ブログはフロー、Wikiはストック」について有益なフォローをしてくれたotsuneさんを中心に、「モヒカン族」というグループが始動し、はてな界隈で注目を集めているようだ。 他人の言説を容赦なく斬る、といったスタンスからのネーミングのようで、黒バックの背景など恐ろしげな雰囲気だが、モヒカン宣言を読むと、そのきちんとしたポリシーにむしろ感銘を受けた。 最近、ネットでの匿名(注)について賛否の議論があるようだが、匿名がダメかどうかという以前に、署名のない発言、出所のわからない情報は、そもそも信用できない。スパムのようなものだ。 注:私がここで「匿名」で意味しているのは、まったく何も署名しないか、その場限りの使い捨てハンドルなどを使うこと指す。実世界での実名ではないが、ネット上で一定の同一性を保つハンドル(「ハンドルネーム」の意、「ペンネーム」などと同義)を使う場合、つまり「トレーサビリティ」がある場合は、私は「匿名」とはみなさない。 モヒカン族は、自分の署名入りで堂々と批判し、さらにただの悪口や差別発言に陥らないようにポリシーも持っている。一見コワモテだが、むしろカッコいい気さえするのは、そのためだろう。 はてなブックマークにおける「ブログはフロー、Wikiはストック」 / ビフォー・アフター的な歴史感覚 私の書いた「ブログはフロー、Wikiはストック」が、はてなブックマークで、たくさんの人にブックマークされている(末尾にコピペ)。 otsuneの日記 : mojix氏の「Blogはフロー。Wikiはストック」という話に納得してブックマークしている人が多いのにビックリした このotsuneさんの記述によると、「ブログはフロー、Wikiはストック」という対比は、yomoyomoさんが昨年、Wikiばなのポジションペーパーですでに書いているという(たしかに、<フロー型コンテンツ(blog)とストック型コンテンツ(Wiki)>とある)。 私はyomoyomoさんのブログはよく読んでいるので、このページも読んでいて、無意識のうちにこのフレーズがアタマに入り込んだという可能性はあるかもしれない。 しかし「ブログはフロー、Wikiはストック」というのは、特に独創的な見方ということもなく、ブログとWikiを両方使っている人なら、おそらく多くの人が感じる印象だと思う(だから、その納得感でたくさんの人がブックマークしてくれたのだろう)。 一連のエントリの中心テーマのひとつに、「勉強ができる」という能力はこれから陳腐化していき、対人能力や人間力がより重要になる、というものがある。 <「知の時代」とか言われて久しいわけだが、「頭のいい秀才くん」たちが一人で机に向かい一人でコンピュータに向かいその結果生み出される「a lot of the most valuable products of the Information Economy」の価値は、「次の10年」で間違いなく下落していく。そういう実に「皮肉な事態」が到来するのである。「頭のいい秀才くん」タイプの人間は、世界中を見渡してみたら、あるいは世界中がつながってみたら、想像していた以上にたくさん存在していたのである。ここを直視しなければならない。むろん大天才は別だ>。 <たとえば、野球が好き、将棋が好き、音楽が好き、勉強が好き、という四人の少年のうち、野球が好きな少年と将棋が好きな少年と音楽が好きな少年の大半は、その三つでプロになって飯を食っていくことがどれだけ大変なことかをだんだんと知り、野球や将棋や音楽で飯を食うということをあるとき諦めて、それは趣味として、仕事は別に持つようになる。でも勉強が好きな少年は、何だかずっと勉強みたいなことをする仕事をして一生を送れるのではないかとこれまでは思ったし、ここ数十年はそういう仕事がけっこうたくさんあった。そういう状況自体が今後厳しくなって、勉強が好きな少年も、野球好きの少年や将棋好きの少年や音楽好きの少年と同じような「人生の厳しさ」に直面するようになる>。 <多くの株主は「企業と命運を共にするオーナー」という従来の株主像からは離れ、「おカネ」という、現代においてはもっともありふれた(commoditized)資本を拠出して、一時的な株価の上ぶれを狙って企業に出たり入ったりするゲームの参加者に過ぎなくなっているのだ。 また、現代社会において一番のリスクを背負っているのは企業の一般従業員ではないか、FTの記事はそう指摘している。曰く、企業の業績変動に応じて移り変わることができる株主とは異なり、モビリティーがないほとんどの労働者は、一生をその企業とともに過ごさなければならず、リスク回避をする手立てがないのだ(さらには、ストックオプション、企業年金などを通じて、二重・三重ものリスクにさらされていることになる)。 以上を考慮すると、保有期間やさらされているリスクを考慮したとき、株主の利益保護を絶対的に優先させるという考えは、他の利害関係者とのバランスで修正されるべきではないか。法律論としてはロジックが弱いかもしれないし、実際に制度論としてどのように実現させるかという点で難しさを残すが(裁判所にその判断を委ねるのが適切だとも思わない。これじゃぜんぜん駄目?)、このような視点は、株主資本主義が声高く叫ばれる今日における政策論を考える上では、特に重要であると思う>。 自分で会社をやっていると、会社やお金について、そして自分が仕事を通じて社会にどんな価値を提供できているのか、考えざるを得ないのだ。 株主は「ゲームの参加者」に過ぎず、一般従業員こそリスクテイカーだ、というこの視点は、そんな私の心にひびくものがあった。 グロービスの堀義人氏が、参議院議員の世耕弘成氏と連名で「韓国と中国の親愛なる友人達へ(Dear Friends in Korea and China)」という声明を発表している。 親愛なる中国と韓国の友人達へ、僕らは過去ではなくて、明るい将来に目を向ける時期になっているのだと認識しています。中国、韓国、日本の3カ国は全て、地域そして世界にとってとても重要な地位を占めます。僕ら全員が、世界をより良い場所にするために協力する必要があります>。 <実際、既にライブドアを「2000年頃までのSBがやっていたような上場投資信託の劣化コピー」とみなす見方は昨年後半ごろから既に出ているわけで、ここに来ていよいよそれが明白になっただけという気も強くする。 しかも、その切り口から分析したこちらのブログの記事などは興味深い。今後の動きをいくつかシミュレートした結論として、「これはほりえもんの"2度目の創業者利益獲得"作戦である」と言い切っている。> <brainが応援していたライブドアでは無くなってしまったでつ。ライブドアとしては会社の存続が最重要なのは分かるでつが、「会社は株主のもの」でつ。株主の所有物である会社を丁半ばくちのかたにするような経営者は応援出来ないでつ。ましてやbrainから見れば、今回のシナリオは ブログパターンについて書いたエントリのコメント欄に、Yukio Andohさんが「Blogger's Pattern」というのを書いてくれた。 「生成に関するパターン」「構造に関するパターン」「振る舞いに関するパターン」という3つのカテゴリで、GoFのデザインパターンを知っている人はまずニヤリとさせられる(「振る舞いに関するパターン」がこの場合、ブログを書く人の「振る舞い」になっているのも面白い)。 - ニュースや情報を紹介する際に「面白い」とか「楽しい」とかは使わない。判断するのは読む人。必ず書き手の考えや予測を記述する。 <内田樹センセイのブログ回りで、首都大学東京、通称「クビダイ」の話が盛り上がっている。元都立大仏文科の助手だった内田氏が、「大学に文学部なんかいらねんだよ」とうそぶいた石原“スターリン”慎太郎都知事と、東北大学長時代に自分の研究室に学生が本を持ってくるのを禁じたという西澤“ヒトラー”潤一学長を、すごい勢いで罵倒している>。 「石原“スターリン”慎太郎」とか、「西澤“ヒトラー”潤一」といったキャッチフレーズも面白い。私はわりと、こういうコワモテのキャッチフレーズをつけられてしまうくらい強いキャラの人にむしろ興味を感じるし、共感するところがある。 <自分が勝ち組だと思えない理由は、自分がどの道で勝ちを目指せばいいのかがわかっていないことだと思う。なんとなく負け組になってしまうのはいやだから、勝ち組だと思えるために単純に経済的や仕事上のキャリアというようなものを目指してしまっている。しかし、どの「道」を選んだら良いのか明確な基準がないので、自己主張せずに今ある価値基準を絶対のものと自己制限している。そして、なんとなく違和感は感じるが、自己主張しないことが良識のある大人なのだと、自分で自分を言い聞かせているのではないだろうか。その結果、競争には勝ったが、満足感が得られないのではないかと思う>。 『30歳からの成長戦略』でも書かれている通り、「勝ち」や「成功」といったものは、自分が出した成果、自分の「価値」の結果としてついてくるものだと思う。 それぞれの目的を持ったお客さんに対し、なるべく早く、スムーズに目的を達成させてあげるような仕組みになっていれば、店はより成功するだろう。 当時の私は29歳で、それまではライターや予備校講師をやっていた。その歳で、IT業界に未経験で転職することは勇気のいる決断だったが、転職して本当に良かったと思う。 ライターや予備校講師もそれなりに面白い仕事だったし、その頃に身につけたスキルや経験は、いまも役に立っている。しかしコンピュータとインターネットに心を奪われていた当時の私には、ITの世界に飛び込むことしか考えられなかった。 やりたいこと、好きなことは仕事にすべし。IT業界に入って以来、この自分のポリシーを私はますます確信するようになった。 ブログや掲示板、Wikiなどは、コンテンツの種類を絞った一種のCMSと言えます。ブログが広まって、正しいシステムさえあれば「Webの更新」はまったく大変ではなく、ラクにできることが広く理解されたはず。これこそがCMSの核心であり、存在意義なので、CMS本格ブレイクへの準備は整ったと言えそうです。「ブログの次」として、今年はCMSに注目が集まるでしょう。 「デジオとは」「about us」みたいなページが見つけられなかったので、私がなんとなくわかった範囲で解説文を書くと、こんな感じ。 自分のしゃべりなどをMP3などのサウンドファイルにして、定期的にアップロード・公開する行為、あるいはそのムーヴメント。タナカカツキ、伊藤ガビンらが開始。PC・ネット時代のデジタル技術による宅録ラジオ、あるいは音版ブログ。 「デジオ時評」「コグのデジオ女学院」「デジオコンプトン」「日常的な会話」など、いくつか聴いてみた。内容はどれもたわいもないものだが、作りこまれていない素人くささや、マイクに向かって1人でしゃべる照れくささがすべてに通低していて、なんともいえない感動がある。 <嫁さんといつも議論になるのが、アイス(カップ)の食べ方だ。俺は上から平らを維持したまま、表面を削りながら食べていくのに対して、嫁さんは端から縦にスプーンを入れて、崖を作りながら食べていく>。 「彼らがムチャ飲みして酔っぱらいにならないのは、酔っぱらいをダサいと思っているからです。陰で上司の悪口を言って憂さを晴らすような姿が、目前の障害に正面から向き合わず逃げているように映るのでしょう。彼らなりに逃げないようにしたら、結果的に酒離れになったんじゃないですか」 コンパとかで無理やり飲ませるとか、迷惑な酔っぱらいとかは論外だと思うけど、飲みたい人が各自、他人に迷惑をかけず、自由に飲むのはぜんぜんOK。 なんにせよ強制と迷惑がまずいわけで、強制や迷惑がともなわない「飲みニケーション」なら、それもいいんじゃないでしょうか。 大意:Timは次にソーシャル・ソフトウェアに注意を向け、Orkutを試したことがある人はどのくらいいるか尋ねた。ほとんどの聴衆が手を挙げた。そして、どれくらいの人がOrkutを使い続けているかを尋ねると、手を挙げたままの人はとても少なくなった。彼は、すべてのソーシャル・ソフトウェア・サービスはまだハックに過ぎず、わたしたちはアドレス帳を真に再発明していない、と述べた。 <SONY HISTORYというSONY公式の社史ページがある。小学校のころはこういう話をむさぼるようによく読んだんだけど、久しぶりに面白くて読んでしまった。特に最初のころ、テープレコーダーを作ったんだけど売れなくて売れなくて試行錯誤するところが面白い>。 7/16いっぱいで営業停止した、ABCこと青山ブックセンターの情報を調べていて、このページにたどり着いた。 この「ぼくたちの本と本屋」というブログをやっているのは、「book pick orchestra」というオンラインの古書店をやっている内沼晋太郎さんという人で、まだ23歳らしい。 今日CNET Japanにアクセスしたら、IBMの「ARE YOU ON?」という広告が画面いっぱいに数秒出たあと、通常のトップページにリフレッシュした。 これは、今日だけなんだろうか。それとも今後、CNET Japanではトップページに戻るたびに、この広告を見せられるのだろうか? CNET Japanはとても好きな媒体だけに、これは残念。ビジネスである以上、広告自体は当然あってもいいと思うけど、この見せ方はなんだかゾッとする感じで、逆効果としか思えない。 手持ちのCDで、わりと聴くものを片っぱしからリップして、iPodに入れている。外に持っていくのも、CDウォークマンではなく、iPodになった。 iPodの場合、CDは持っていかなくていいし、CDの取替えも不要。あたり前のことだが、これでぜんぜん違うのだ。 私の場合、「突然、ふと○○を聴きたくなる」ということがしょっちゅうある。大量の音楽ライブラリが、こんなに小さく持ち歩けるとは、想像もできなかった。 大量なだけではない。アルバムやアーティストから探して聴けるだけでなく、自分のプレイリストを好きなだけ作っておいて、好きな順番に聴ける。これも、CDウォークマンでは絶対にできなかったことだ。「On-The-Go」機能で、iPodの中でプレイリストを作ることもできる。 化学業界のEDIを推進するCEDIという団体での講演の補足ということだが、どの業界でも通用する話で、とても面白い。 目先の利益でなく、長期的スタンスに立ったバリューチェーン戦略のためには、個々の人間の勇気ある動きが大事だ、というのが大筋だが、そこにこんな一節がある。 大人気の梅田さんブログ、もちろん私もいつも読んでいる。しかし、クールな梅田さんまでもがこのテーマについて、こんなにストレートなことを書くとは思っていなかった。 私はこれを「好きな奴が勝つ」定理と呼んでいて、いわば私の信条みたいなものだ。プロフィールにも書いている。アンディ・グローブの有名な言葉「偏執狂だけが生き残る(Only the Paranoid Survive)」も、私はこの意味に解釈している。 以前、やはりCNET Japanでやっていたネットエイジの西川潔氏の連載でも、この「好きな奴が勝つ」定理がメインテーマみたいなものだった。 このmojix.orgを読んでくれている人で、就職活動中の大学生や短大生、専門学校生はいるだろうか? この記事を読んで、<3、4社の面接や説明会をはしご>とか、最後のほうには<まじめに就活する学生は50、60社は普通に受けている>とか書いてあって、驚いた。 この記事の主旨は、「就活」する学生を持つ親についてのものだが、私はむしろ、そんなに無節操に企業を受けまくる学生が問題だと感じる。 ringo's weblogの2/19で、「トランクにマージされないコードを書くのは萎える」というタイトルで、仮想空間について書かれている。 <実際の世界のデータを反映させるタイプの情報ツールは、究極的には mirror worlds を目指すことになる> <結局、私が mirror worlds 法に燃えられないのは、「自分がやった事」があくまでブランチ上にしか乗らないからかもしれない> ここで中嶋さん |