| このページは 04月のキャッシュ情報です。 |
からめるとは?
[ 104] お菓子の工房「めるしー」
[引用サイト]
http://merci795.jugem.jp/
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農をおいしく!新鮮な素材を使ったおいしいお菓子。 栃木県宇都宮市の卵屋さんがケーキショップを始めました! 4つの味が楽しめるジェラートパフェとチョコ好きにはたまらないチョコレートパフェ、新鮮なフルーツが盛りだくさんのフルーツパフェです。フルーツパフェのフルーツが日によって変わるというのも楽しみです(^-^) 今は『入園・入学おめでとう』の気持ちを込めて、【congratulations】の文字と桜の花が飾られています。 季節によってどんどん変わっていきますので、めるしーにご来店の際にはぜひ、チェックしてみてください(^_-)-☆ とても甘いトマトです!サラダにして良し・でも私は、デザートで \(^o^)/ 朝、トマトのスライスにプレーンのヨーグルト・蜂蜜をかけて! 朝の目覚ましに、是非(^^)心を込めてメルシー 今日は月刊タウン情報誌『もんみや』の取材を受けちゃいました。次号にはメルシーのマドンナ。たかちゃんがメルバーム作成しているところがのりま〜す。おたのしみに。心を込めてメルシー。 今日は、めるしー・野菜コーナーから 簡単!おすすめ一品料理 (^^)/ まず 契約農家の青柳さんの水菜と、五月女さんの椎茸を 使います! オリーブオイル+にんにくスライス (ありましたらベーコン)そこに、椎茸・水菜をアッサリ塩・胡椒で炒めます(^^)皿に盛り付け! ☆ 中華ならば、豚ばらを使って甘酢あんかけ ! (^^) ☆ 和風ならば、根しょうがをきかせて、醤油とみりんでからませ、おかかで仕上げ ! (^^) とっても簡単・沢山食べられちゃいます。 今夜の一品にいかがでしようか?\(^o^)/ 春の限定商品、桜シフォンがちょうど焼き上がった写真です(*∩_∩*)ほんのりピンク色♪サクラの優しい香り♪しっとりふわふわの生地は口の中でいつのまにか消えてしまいます。そのような上品な仕上がりになりました(*∩_∩*)ぜひぜひご賞味くださ〜い。心を込めてメルシー(b^-゜) 桜の花も満開となりました \(^o^)/ めるしーも、春風セット・G段キューブ・アップルぶーと、色とりどりです(^^) 焼き菓子もいろいろ選んで、お詰めすることもできます。 是非 御来店下さいませ m(__)m 店内ディスプレイ☆⇒ 森伊蔵 もりいぞう - 魔王 - 村尾 - 伊佐美 - 佐藤@焼酎情報銀行 (04/15) 春風セット〜♪⇒ アウトレットの御殿場大洗佐野りんくう軽井沢で家具など超お得アウトレット! (04/04) ほうれん草がおいしいのは(^-^)⇒ アウトレットの御殿場大洗佐野りんくう軽井沢で家具など超お得アウトレット! (04/04) |
[ 105] めるへんの森幼稚園【園長室から〜園だより】: 2004年09月 アーカイブ
[引用サイト]
http://www.est.ac.jp/blog/archives/2004/09/
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朝、バスが到着すると、子ども達が次々に降りてくるが、多くの子は降りたとたん駆け出す。特に男の子はそうだ。走りながらも、元気な声で「おはよう。」「おはようございます。」「園長先生、おはようございます。」と挨拶をしていく。しかし、バスから降りると、迎えている私を見向きもしないで夢中になって教室に向かって走っていく子、中にはこちらから声を掛けても声を出せない子もいる。 それに比べ、徒歩通園の子達は、お母さん等と一緒に来るせいか、通用門を入っても駆け出す子はあまりいない。それだけに、余裕があり、私も声を掛けやすい。しかし、声を掛けても、まだ恥ずかしそうにお母さんの陰に隠れてしまう子もいるし、たまには調子が悪いのか、お母さんからなかなか離れられない子もいる。登園風景も様々である。 朝、子ども達と挨拶を交わしていて感じたことがある。一つは概ね小学生に比べて立派であるということである。小学生は、高学年ぐらいになると、口が重くなったり、軽い会釈で済ます子も多い。 もう一つは、多くの場合、こちらが『おはよう』と声を掛けた場合には、「おはよう」と返ってくるし、『おはようございます』と声を掛けた場合には、「おはようございます」と返ってくることだ。これは小学校でも、2年生くらいまでは似たようなものだ。友達同士の話に夢中になっていると、そこにいる校長の存在さえ気がつかない子も多い。そして私も、小学校にいたときには、低学年はそんなものだろうくらいに受け止めていた。 ただ幼稚園は、バス通以外はお母さんと一緒に登園するのが原則である。すると、私の『おはよう』の声掛けに、子どもが「おはよう」と応えると、お母さんが「おはようございます、と言うのよ。」と、すかさず注意する方も多い。お母さん方のそんな姿に接すると感心させられる。 「教育内容の適時性、躾や生活指導の即時性」ということがある。3〜5歳児という時期に、その年齢に応じた基本的な生活習慣や社会的な習慣を身につけることは最も大事なことの一つだ。また、躾は、その行為や体験が行われているその場で、即時に行うのが原則であろう。後から、「あのような場合は、こうするのよ。」と言って聞かせても、その効果は半減するものと考えなければなるまい。そのことを心得、実践しているお母さん方の姿に感心するのである。 いずれにせよ、朝、子ども達と挨拶を交わせるのは気持ちがよい。少々遠くからでも、目ざとく私を見つけて、大きな声で「園長先生、おはようございます。」と挨拶する子も多い。また、年中児のA子ちゃんやF子ちゃんは、私の前に来ると顔を見て立ち止まり、両手を前に重ねて、頭を下げながら「おはようございます。」と挨拶してくれる。昭和30年代以前の子供たちを思わせる挨拶の姿である。 ただ、一言付け加えるなら、まだ挨拶ができない、声が小さい、といったことで焦る必要はない。子ども達の社会的適応性は個人差があって当然なのである。 もう一話。年少児のいつも元気なTくん、登園し、私に挨拶しようとした瞬間転んでしまった。思わず、手を出して起こそうとしたが、そばにいたお母さん「強いんだから、一人で起きなさい。」と一声。一瞬、私も出しかけた手を引っ込めてしまった。Tくん、泣きながら、地に伏して起きようとしない。お母さんは、2・3度、一人で起きるように声をかけるだけである。その間1・2分、とうとうTくん一人で立ち上がった。その後も泣きじゃくるTくんに「さあ、園長先生に、ご挨拶しよう。」と促すが、さすが泣きじゃくっているので、そう簡単には声が出せない。しかし、お母さんの数度の促しに、Tくんはとうとう「おはようございます。」と言うことができた。 一人で行動ができるまで、根気よく待つことのできる母親の強さを見せていただいたおもいであった。自立心は、このようにして育てられていくのだろう。 13日、生憎の曇り空であったが、遠足が実施された。私は、お母さんと手をつないで楽しそうに山道を歩いている年少児の列の後ろをしばらく付いていった。最後尾を歩いていたMちゃん、落ちているサクランボを見つけ拾っている。当然前に進んでいる列からは離れてくるが、Mちゃんの視線は道の上であったり、道の横の土手に向けられている。まさに道草を食い、集団行動としては注意を受ける場面かもしれないが、Mちゃんと一緒に歩っていた伊勢教諭、何も言わずMちゃんの好奇心に付き合っていた。私も道端にあった朽ち木を見つけたので、「こんなところに虫がいるんだよ。」と割って見せようとしたが、残念ながら虫を見つけることはできなかった。 このところ年長組の子ども達が、図鑑を手に園庭で動植物を探している姿が多く見られる。全員が図鑑を渡されたとのこと。 タンポポやスミレなどはすぐ見つけ、名前も分かるのだが、雑草でもよく知られていないものについては、図鑑を広げて絵と実物を見比べて調べている。はこべやオオイヌノフグリなどを図鑑から見つけ、「これだ、これだ。」と嬉しそうにしている。たかが、オオイヌノフグリであっても、自分の力で発見したときの喜びや感動は、子供たちにとって、科学者のそれに匹敵するものであろう。 最近「園長先生、メダカ見せてください。」と言って、年長児や年中児が、三々五々園長室に出入りする姿が多くなった。子供たちが渡された図鑑や春の小川の風景が描かれている絵本にメダカの絵が描いてあるらしい。 ご承知の方も多いかと思うが、園長室ではメダカと年中組の坂田さんから、飼育セット込みでいただいたタナゴが飼育されている。 メダカは、前任校の榴岡小学校にいるとき、環境問題に熱心な知人が校長室を訪ねてきた際、「小学校では5年生がメダカの生態を調べるのだが、今の子供たちは、ペット屋さんで売っている緋メダカしか見たことがない。」といった話をしたところ「それでは本物のメダカを持ってきてやる。」と言って、わざわざ七ヶ宿町まで行って持ってきてくださったのが、飼育し始めたきっかけである。それを榴岡小の校長室や理科室で飼育し増やしたものが、私と一緒にめるへんの森幼稚園に転勤してきたのだ。今また卵を産み、子メダカが孵化し始めたところである。 坂田さんからいただいたタナゴも、もともとの生息地は伊豆沼と伺った。何とか増やすことはできないものかと考えているが、なかなか難しいらしい。何しろカラスガイに卵を産み付ける習性があるとのこと。カラスガイも併せて飼育しなければならないのだ。 また先日は、地域の方からアゲハチョウのさなぎをたくさんいただいた。すでに羽化したものも多く、子ども達に見せながら放してやった。子供たちは大きな歓声をあげながら、アゲハチョウの飛び立っていく様子に拍手を送っていたのである。しかし中には、羽が変形した蝶もいて、飛び立つことができない。そんな蝶をとまらせた花壇で翌日になっても動けないでいるのを心配そうにのぞき込んでいる子供たちの姿があった。 子供たちにとって、図鑑や絵本の知識だけではなく、実物を見て確認することの意味は大きい。年長児が持っている図鑑は、もちろん大人から見るとちゃちなものである。しかしそこに載っているものくらいは実物で確かめることのできる環境を整えてやりたいものと思う。 「バスの中で、下校時の女子高校生が楽しげにおしゃべりをしている。そこに、ご主人の体が不自由であるらしい老夫婦が乗って来たが、女子校生達は一向に席を譲ろうとしない。思い余った老婦人が(どなたか席を譲っていただけませんか)と声をかけたとたん、周りの女子高校生達が一斉に立ちあがった。今の若い人達は、決して悪意で席を譲らないのではない。気がつかないだけなのだ。」 この一文を読んで私が感じたことは、他人の子を見ている場合には、悪意はないんだと苦笑して済ますことはできるが、もしこれが我が子であったなら、「気がつかない子」ではなく「気がつく子」であって欲しい、ということであった。 私が子どものとき、どこに行くにも母親と一緒に市電・市バスを利用し、お年寄りや妊婦が乗って来ると必ず私が立たされ席を譲らされた、という思い出がある。小学校に入る前からである。お陰で社会人になってからも素直に席を譲ることができたように思うし、この歳になっても、明らかに私より座るべきと思われる人が居れば譲ることができる。 先日、私が仕事の帰りに仙台駅からバスに乗っていたところ、途中から、ある小学校の6年生の集団が乗車してきた。校外学習の帰りでもあろうか。その小学生達の多くが、乗車したとたん、空いている席に我先に座ろうとしている。そして私が降りるべき停留所に来て、座席から腰を上げたとたんに、一人の男の子がさっと割り込むように入ってきた。何か、さもしさ(心の貧しさ)を感じた。 今の子供たちは、どこに行くのでもほとんど親が運転するマイカーであったり、公共交通機関に乗っても、親が立って子供が座っているという場面が多く目につく。小さいときからそのように育てられ、バスに乗った場合は先に座るものだという習慣が身に付いている子にとっては、6年生になっても当たり前の行動なのかもしれない。 そういった場面での感覚や行動の姿は、家庭や社会での日常生活の中で自然と身についてきたものだ。改めて幼児期からの生活体験の大切さということを考えさせられる。つまり、親と一緒に公共の場に触れ、様々な場面に出会うことによって、その時々の対応のあり方を学んでいくということが必要なのである。 まず、前述したように、現在はどこに行く場合もマイカーになり、公共交通機関で移動すること自体が少なくなっている。そのことは、マイカーという狭い空間の中で、家族だけの関係で時間を過ごすことになり、社会と接するという機会を失っていると言うこともできる。つまり、子どもにとっては、社会の中で学ぶべきことの学習機会が狭められているのである。 冒頭述べたように、「気づかない子であるよりは、気づく子であって欲しい。」という親としての願いを持つのであれば、親は子供が体験する場を意図的に作り出す必要があろう。なぜなら、「気づく子」としての感覚や習慣的行動は、一般的な“言い聞かせ”によってではなく、日常的な生活体験として身に付いてこそ、その子の“人柄”として表現されることになるだろうから。 (H16.5) 「女子児童、同級生を殺害。」愕然とした想いで、ニュースを聞いた。小学校6年生の女の子が同級生の女の子をカッターナイフで殺害したという。そのニュースを聞いたときには「なぜだ。何が起きたんだ。」ということだけが頭の中を駆けめぐっていたが、時間が経過する中で、少しずつその背景が情報として流れてきた。 加害者・被害者二人の児童は、普段仲良しであったとのことである。仲良しであるが故に、インターネットを使っての交流を続けていたのであろう。思春期に入った女の子がよく行う交換日記の感覚で行っていたのかもしれない。そんな中で、多分軽い気持ちで書いたであろう「悪口」が、この殺人事件の動機になったという。 昨日まで仲良しであった友達が何かのきっかけで気持ちのすれ違いを起こすということはよくあることである。そんなとき多くの場合は、いったん「絶交」を宣言するが、いつの間にかまた仲直りをしている、といった程度で収まる。より深刻な場合は、心にわだかまりを持った子が、周りの子たちに自分の気持ちを共有することを訴え、相手を仲間はずれにしたり、いじめという状況を生み出す。これまで考えられていたパターンはこのようなものだ。 しかし今度の事件は、そのような経過を経ずに、一挙に殺人にまで飛躍してしまった。加害児童は、自分が心にわだかまりを持ったときに、それを共有する仲間づくりができず、一人で思い詰めていったのであろうか。それだけに、普段はまじめで善意性のある普通の子であったように感じる。 これまでも、小学生に関わった事件はあった。しばらく前になるが「酒鬼薔薇聖斗事件」3年前の「池田小事件」などは、私たちの記憶に新しい。しかし私は、今回の事件が、これらの大事件とは別の意味で、教育現場により深刻な課題を突きつけられたと受け止めている。 と言うのは、前記「酒鬼薔薇事件」や「池田小事件」は、ある種特異な状況で起きた事件であるのに対して、今回の「女子児童殺人事件」は子ども達の日常的関係の中で起きた、というところにその特徴がある。 保護されている加害児童は「よく考えて行動すれば良かった。」と後悔しているとのことであるが、日常的なトラブルでの浅慮はあり得る。しかし、浅慮であったとしても、普通の子であろう女の子に「殺人」という選択肢があるということに深刻さを感じる。本来まともな感覚を持っている場合には、自分の行動の選択肢の中に「人を殺す」ということは出てこないはずだ。 背景としてビデオやインターネットによるバーチャル(仮想)な世界の影響という論調もあるようだ。いずれにせよ、幼児期からの生活環境・価値観形成が無関係ではあり得ない。 私も幼児期や小学校の中学年頃までは、少年雑誌の主人公の世界に酔った覚えがある。ましてやテレビゲームの、より写実的な映像からは影響を受けない方がおかしい。幼児期からテレビゲーム等でバーチャルな世界に浸らせるとすれば、逆説的な意味で早期教育である。さらに大事なことは、非常に素朴であるが絶対的な価値を幼児期であるからこそ、徹底して身につけさせることであろう。「人を傷つけてはいけない。」「人を殺してはいけない。」「嘘をついてはいけない。」「盗んではいけない。」 大きくなって、何か気の迷いが起きたとき、直観的に判断する力は、三つ子から培われ身に付いた感覚である。(H16.6.9) この春から、めるへんの森幼稚園にお世話になっていて、ここしばらく忘れていたものを思い出すことができた。それは青空である。梅雨に入り時季はずれの話題になるが、雲一つない青空に園舎の屋上で泳ぐ鯉のぼりの姿、長く尾を引いている飛行機雲、はたまたたった1羽の鳶がゆったりと輪を描いている様子などは、葉祥明画伯の絵画を思い起こす風景である。 これまでも青空を見なかったわけではない。しかし、めるへんの森幼稚園の園庭から見る青空は、これまでの風景とは違う。一言でいえば、広いのである。 これまで勤務していた小学校は、ほとんど校舎が4階建てで、しかも、高層マンションが学校と道路を挟んで建っているため、校庭の真ん中にいても空を仰いだときの仰角が大きいのである。その点、めるへんの森の園庭から空を見上げた場合は、園舎は2階建て、南側のアパートも低層である。西側の長命舘公園の山が周りから比べれば高いが、幼稚園自体が高い場所にあるので、山が迫っているという印象はない。それだけ空が見える角度が広い。 そんなことを考えながら空を見ていると、場所により空の色が違うことに気がついた。同じ青でも、真上の色が濃くて、周辺部にいくにしたがって、やや白っぱしくなってくる。これは光の屈折の関係であろうが、同じ「空色」であっても微妙な色の変化が面白い。 このような色の違いを感じるものは他にもある。一言で“緑の山”というが、山をよく見ているといろいろな緑があることに気づく。夕暮れ時に遠くに重なり合う山々を見ていてもそうだ。遠くになればなるほど、山の影が薄い色になってくる。 このような微妙な色の違いに気づく色彩感覚が持てるようになるのはいくつぐらいからなのだろうか。いつぞや、そんな条件に恵まれたときに、年長の子たちに「お空見てごらん。」といって、声をかけたことがある。関心のない子もたくさんいたが、何人かの女の子は、空色の微妙な変化に気がついて「本当だ。」と反応してくれた。幼稚園児でも働きかけようによっては感じることができるのだろう。 幼稚園では「絵の具遊び」をやることがある。そんな遊びを通しても、色の微妙な違いにも気づくような感性を育てていきたいものだと思う。しかし、それを表現するということになると、より専門的な指導が必要になる。保護者の皆さんの中にそんな専門性をお持ちの方はいないだろうか。 それにしても、めるへんの子は幸せだ。空の広さを、日常的に感じ取ることができるのだから。街に生活する子は、平素は空の広さを感じることはできないのである。 前々回「判断する力は三つ子の魂」と題して拙文を掲載したところ、年長の保護者の方からお手紙を頂戴した。幼児期からの価値形成に私の拙文がどれだけお役に立つかは、はなはだ自信のないところだが、このような形でお便りを頂けるのは心から嬉しく思う。 ところで、先日私用で東京に行った。用事を済ませ、お上りさんよろしく、話題になっているものを一度は見ずばなるまいと、六本木ヒルズに行ってみた。しばらく前に小学生の死亡事故でニュースになった回転ドアは閉鎖され、花束がいくつかおかれている。建物の中に入ると、高層ビルの各階に、様々なテナントの店があり、見て歩くだけでも疲れてしまう。 その池の周りを涼風を求めて巡っていると、メダカとオタマジャクシがいる。メダカといっても緋メダカで、それらが広い池の中でいくつかの集団を作り、メダカの学校よろしく泳いでいる。どうせメダカを放流するのなら、緋メダカではなく、田圃や小川にいるメダカを放して東京の子ども達に見せてやればいいのに、と思いながら眺めていた。 また、池の端の浅瀬にはオタマジャクシがたくさん集まっていて、幼児がそれを一生懸命捕まえようとしている。後から父親が、子どもが池に落ちないようにとズボンを押さえていた。微笑ましい姿である。 しかし、よく見るとそのオタマジャクシ、図体が大きい。どうもウシガエルのような大型の蛙のオタマジャクシのようだ。そんな姿を見て、これらのオタマジャクシの多くが蛙に成長した場合には、せっかく放したメダカは全部食べられてしまうのではないかと心配になった。 そんな心配が杞憂に終わることを願いながら、東京駅に向かう地下鉄に乗った。車両の中は、ほぼ7〜8割の座席が埋まる程度の乗車率で、所々に空いた席がある。私もそんな席の一つを見つけ腰を下ろしたが、その途端奇妙な違和感を感じた。私の向かいの長座席に座っている人々のほとんどが同じ様子をしているのである。つまり座っていた13人中9人(わざわざ数えたのである。)までが、肘から先の手を突き出した同じ格好で携帯電話の画面に見入っている。どうもそのような様を見ていると奇妙というよりも滑稽になってくる。 以前にも、こんな場面に出くわしたことがある。一人喫茶店で休んでいたとき、近くのテーブルに3人の女子高生が来た。彼女たちは、席に着いて一言二言言葉を交わすとすぐに、それぞれが携帯電話を取り出し、電話の相手と話をしていたり、メール打ちに没頭している。それは私が店を出るまで30分近くは続いていたのである。何のために、3人で喫茶店に来たのだろうと思う。 携帯電話文化が世の中を席巻している観があるが、携帯電話を通して他人とのコミュニケーションを図ったり、世の中の情報を得るという習慣が身に付くことによって、直接対面する他人との関わりが下手になっているということも指摘されている。そして道路であれ、電車の中であれ、携帯に見入っている姿について、それが滑稽であるかどうか、自らは周囲の目を憚ることはない。 ところで、最近携帯電話会社のコマーシャルに、あるタレントが出ている。電車内での携帯電話使用を止めることを呼びかける内容である。彼曰く「デリカシーがないんだなあ。」 そのタレントさん、スタジオであれ室内であれ、映像を見ている限り常に帽子を被っている。そのコマーシャルにおいても例外ではない。「室内では帽子を被らない」ということのデリカシーはどうなっているのだろう。(H16.6.29) 「父親が畑を耕し、母親が畝を作り、子供が種をまいていく。」「子供たちは自然の中で、群遊び、時にいたずらや危ない行動をして、共同体の大人からしかられる。」こんな風景の中に、子供が育っていく教育環境の原点がありました。大昔にあっては、このような環境の中で、子供たちは自然と生きる術を身につけていたのでしょう。振り返って今、このような教育的機能を持った環境は夢想だにしません。理想とする環境がなければ、それに近づけるよう努めねばなりますまい。何故なら子どもは環境によって育つのですから。 私がこの春、園長を拝命して以降、ずっと想い、及ばずながら力を注いできたことは、教育環境の充実ということです。一口に「教育環境」といっても様々な要素と場面がありますが、そのことを総花的に言ってもしょうがありません。焦点化した取り組みをしたいと考えております。 児童文化の実践家として宮城県いや東北でも高名な富田博名誉園長は、「童謡と童話」によって感性豊かで想像力のある子どもを育てようと努め、それがめるへんの森幼稚園の教育の大きな柱になってきました。このことは、今後とも「めるへん教育」の柱として継続していくつもりでおります。 併せて、私は、好奇心の旺盛な子どもになって欲しいと願っています。また、人との関わりを通して育って欲しいとも思っています。園長になってまだ間はないのですが、当面、それらのための教育環境作りに努めていきたいと考えているのです。 子ども達の好奇心を涵養するためには自然との触れ合いということが大事です。幸いなことに、本園は、長命舘公園に隣接しています。この豊かな自然は大いに活用していきます。さらに、幼児期の子どもは生き物に対する興味が旺盛ですので、そんな興味を満足させるような小動物の飼育環境を充実させます。その場合、単にお世話活動だけにとどまらず、命の循環を実感できるもの、そして昆虫のように成長の過程で姿形が変わり、不思議や驚きの気持ち(ワンダー)を培うことのできるものを飼育したいと考えているのです。 先日、駐車場の一角を畑にするために年長の子ども達も、一緒に作業をしました。土を起こしていると、昆虫の幼虫やミミズが出てきます。ミミズを捕まえた裕太君、ミミズを飼いたいとのこと。早速飼うことにしました。 もう一つの環境は、人的環境です。核家族の中で生活している子が多い現在、子ども達にとってお年寄りとの関わりが最も希薄になっている、ということが従前から指摘されていました。そんなことから、私は、子ども達とお年寄りとの触れ合いの機会をできるだけ多く作りたいと考えています。年長の保護者Aさんから情報を頂いたデイケアセンターとどんな交流ができるか、今打ち合わせを進めているところです。さらに地区内の老人クラブの皆さんのお力もお借りした取り組みはできないものかということも考えております。 幼稚園では子ども同士が関わり合いながら生活していますが、そのこと自体が成長のための人的環境です。それと同時に、子ども達を包み込み、教育活動をコーディネイトする教師は、親に次いで大きな人的環境です。その意味からも教師の資質の向上は常に求められるところです。良い環境が存在しても、それを活かすことができなければ何にもなりません。必要な環境を創るとともに、環境を活かそうとする感覚と視野を幼稚園としても、一人一人の教師としても持ち続けたいと思っています。(H16.7.6) 先日健康診断を受けた。園医の小林先生から「少しですが、肝脂肪がありますね。」と宣告を受けた。「少しですから。」と慰めの言葉を頂くが、私としては少し深刻になる。何しろ、祖父も父も肝臓が死因である。 「やはり運動不足でしょうか。」「そうでしょうね。」そんなことから、車を必要とするとき以外は自転車で通勤することにした。ただ腰痛持ちなので、自転車の振動の影響は心配であるが、数日間実行してみた。川平の自宅から15〜16分。朝は爽快である。 自転車に乗っていると、同じ道筋であっても、自動車のフロントガラスを通した場合とは風景の見え方が違う。一つは目の位置が高いので視野が広い。また、スピードが相対的に遅いので、今まで見過ごしていたものが見えるようになる。団地の家々の庭に植えられている様々な花木、路肩に咲く花、選挙ポスターもよく見える。先日は、桑の実(くわご)を見つけた。北環状線の歩道脇の生い茂った雑草の中に埋もれるようにして実を付けていた。また、ヨウシュヤマゴボウも、勿論まだ熟してはいないが、実を付け始めている。赤紫に熟した実は、子ども達の秋の遊びには欠かせないものだ。萱場家(本園技師)の茅葺きの建物もよい。農機具入れに使っているようだが、映画「阿弥陀堂だより」にも使えそうな趣がある。徒歩であれば、なおいろいろなものが見えるのであろう。 朝は爽快であると前述したが、実はそうでないこともある。北環状線などは、明らかに自動車の排気ガスが漂っていて、その臭いは爽快とは言えない。時にはそれをまともに浴びて胸が苦しくなるときもある。自動車で通勤しているときは、私も自転車や徒歩の人たちにそのような思いをさせていたのだろうと、自責の念にも駆られる。生活の利便性と環境問題との整合性を取るのは難しいが、そのような矛盾があるということを認識して、環境に優しい方向を向きながら、意識してバランスを取った生活をする必要があるのだろう。 スローライフといった生き方が一つのトレンドとして主にマスコミを通して聞かれる。確かにゆっくりしているといろいろなものが見える。「ゆっくり」とは時間的なゆとりや気持ちのゆとりということである。私達の教員という商売も、あまりせかせかしていたり余計なことで気を煩わされると、肝心の子どもが見えなくなるし、まなじりをあげた教師では子どもも寄りつかないであろう。もっとも、残念ながら社会全体が気持ちにゆとりが持てないような環境になっているということも事実である。せめて通勤時はゆっくりした気持ちで自転車を漕いでいこう。少しは見る目が広がり、気づきの感覚も鋭くなるであろうか。 そんなことを思いながら幼稚園に着いて、まずは駐車場の横に植えたサンショウの木を見る。先日は、見事にアゲハの幼虫が9匹もついていた。卵の時には見落としていたのだろうが、孵ったばかりの体長1ミリ程度の毛虫である。早速飼育することにしたが、残念ながら羽化するのは夏休み中になろう。しかし植えたサンショウに卵を産み付けることは確認できた。2学期に期待が持てる。 ふと、サンショウの木の根元を見るとネジリバナ(もぢずり)が螺旋状に可憐な花を付けている。前からいた職員達に聞くと、そこにネジリバナが咲くのは初めて(?)だそうだ。どこからか種がこぼれたのだろう。 有名な「みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし われならなくに」が百人一首の中にある。私も得意になって、「百人一首に出てくる花だぞ。」と宣ったところ、智子先生から「それは違う。ここでのもぢずりは、信夫の里にある文知摺石から来ているという説が有力です。」と教えられた。私自身、今まで“しのぶもぢずり”はねじり花を指すもんだと思いこんでいたが、大きな勉強をした。 夏休みいかがお過ごしだったでしょうか。始業式、子ども達の元気な姿と声に接し、でれーっとしていた私の体と気持ちも、何とかしゃんとしてきました。 「海で溺れたんだよ。」というA君の言葉にびっくりしましたが、夏休みの生活の様子について子ども達の報告を楽しみにしたいと思います。 今年の夏休みは、前半は暑さに襲われ、後半はまだ終わっていませんがアテネオリンピック中継で寝不足に襲われました。日本は久しぶりのメダルラッシュとかで盛り上がっています。 昨年のヒット曲に「世界でたった一つの花」というのがあり、コールめるへんのお母さん達も持ち歌にしています。「ナンバーワンでなくてもよい。オンリーワンになろう。」といった主旨の歌詞で、それが多くの人々に共感されヒット曲になったのでしょう。ところが、オリンピックが始まった途端「金メダル、金メダル。」とナンバーワンになることを求める声がマスコミを通じて国中に充満しています。 オリンピックは、ナンバーワン志向を強めると共に、国民を民族主義者にしてしまいます。つい私も毎晩柔道の中継を表彰式まで見てしまいましたが、日本選手の試合には力が入ってしまうし、勝てば「よしっ!」と心の中で叫んでおりました。 金メダルを獲った選手達は、各テレビ局のスタジオに出演してインタビューを受けています。彼らのコメントを聞いていると「小さいときから、オリンピックを目標にして頑張ってきて、その夢が実現した。」といった発言が多く聞かれました。小学生の頃、或いはそれ以前から、水泳や柔道一途に頑張ってきた選手達は多いようです。事実水泳の北島選手は小学校の文集の中でその抱負をすでに述べているとのことですし、ご承知仙台出身、卓球の愛ちゃんは幼稚園の時から母親が“鬼コーチ”になって、親子で頑張ってきたことはよく知られています。他にも柔道一家、体操一家、ハンマー投げ一家で育ったり、小さいときから父親にレスリングの薫陶を受けて育ったという話も多くあります。 そんな選手達の姿をテレビで見ていて、「たった一つの花」がいうように「オンリーワン」と「ナンバーワン」は必ずしも対立概念ではないのではないだろうか、ということを考えさせられました。最近の風潮として、なぜ「ナンバーワン」が否定的に受け止められているのかというと、限られた体制の枠の中での競争が強要されていたからではないのかと思うのです。オンリーワンの意味は、頑張ることへの多様性を認めること、そしてそれを選択する力を持つことにあると考えています。 彼らナンバーワンになった若者達は、その前提として“オンリーワンなるもの”を既に獲得していたのです。しかしオンリーワンになるためにも努力或いは頑張りということは必要だったでしょうし、オンリーワンになる努力がナンバーワンに向かわせ、その結果究極のオンリーワンが誕生するのではないだろうか、と思うのです。 このような若者の姿は子ども達に夢を与えます。でも子ども達への夢だけならよいのですが、親の早期教育指向が流行るのではないか、ということも懸念されます。しかし、オンリーワン(個性・才能の開花)を目指したとき、一人のナンバーワンの陰に何百人何千人の挫折した人間がいることも事実です。限られた内容に対する早期教育は、結果としてナンバーワンを達成した人たちにとっては必要なことでしたが、自分の個性とは合わずに挫折した場合には自ら立ち直る力が付かないことが多い、ということも言われています。 その内容により、始める適時性も、開花する時期も違います。愛ちゃんの親御さんのように強い意志を持って自分の子どもの個性を見つめるのでなければ、自分で選択する力や自ら立ち直る力を身につけるために、幼児期には、幼児期として必要な体験を十分にさせることのほうが大事なのでしょう。 今年の「24時間テレビ」にも多くの感動がありました。ニューヨークヤンキーズの松井選手にあこがれ、“自力で歩く”ことに頑張る先天性小児麻痺の少年納見元基君、39歳にして100キロメートルマラソンに挑んだ女優杉田かおるさんにもオンリーワンを目指す姿を見ることができたのです。(H16.8.25) また起きてはならないことが起きてしまった。先日、古川で幼い兄弟が父親によって殴り殺されたというニュースが茶の間に流れたときには、何ともやりきれない気持ちになった。“また”と書き出したのは、この種の事件を耳にすることが非常に多くなったことによる。このような事件が紙面に頻繁に登場するようになったのは、ここ10年くらいだろうか。 古川の事件も全貌が明らかになったわけではないが、若い父親が、子どもが嫌いで、殴っているうちに死んでしまった、ということらしい。殺意があったとは思いたくない。 この事件に限らず、ここ10数年来ニュースになっている若い親による乳幼児に対する虐待は、泣き声がうるさい、自分の思い通りにならない、そんなことにいらいら感を持ち、それを暴力という行為で表現している様子がうかがえ、非常に単純で短絡的な構図に特徴があるのかと思う。先日判決のあった大阪の虐待致死事件では、「ゲーム感覚」で虐待を繰り返していたという。 このような事件が起きるたびに、学者達のコメントが新聞紙上に載る。曰く「今の若い親層は、子育てで悩みを持っても、相談する相手がいなく精神的なストレスを蓄積している。」 核家族化、地域コミュニティーの希薄化といった社会環境の中で多くの若い親がそのような状況にあることは確かであろう。しかし、我が子を虐待し死に至らしめるような親たちに関してはそれ以前の問題があるように思えてならない。 少年犯罪の凶悪化が言われて久しい。ホームレス襲撃事件が頻発し、暴走族等の反社会的行動に参加する少年達も多くなったという。そのようなことに関わった経験を持つ少年達であっても、多くは成長して大人としての自覚を持ち、社会の一員としての生活を送っているのだろうが、中にはそのままの感覚や生活スタイルで大人になり、親になってしまった者もいるように思えてならない。 このような親の課題は、一つには、産み育てるということ自体への認識が乏しく、自分の領域や心地よさを侵すものに対しては我が子であっても嫌悪感を持つ。その点、どのように子どもを育てるかということで悩んでいる親とは本質的に違う。 二つには、そのような嫌悪感や気に触ることに対しては暴力という形でしか表現できず、しかもその手加減についての判断力がない。 そして三つ目の課題として、「死」に対する想像力に欠けると言うことができる。「死ぬ」ということや「命の不可侵性」は絶対的で、それが侵された場合には復元しないということへの直感さえ失われているのかもしれない。特に他人に対して。そのことは戦争やテロ行為を遂行している人々にも言えることだろう。 「命の不可侵性への直感」を失っているのは、これらの特異な行為をする人々だけではないかもしれない。夏休み前のことになるが、長崎県のある小学校の6年生のクラスで、佐世保の同級生殺害事件を受けて、「死」というテーマで授業が行われた様子が放映された。「死ぬということはどういうことだろう。」という教師の質問に、ほとんどの子ども達が「生まれ変わることができる。」といった趣旨の答えを返していた。 小学生のこのような感覚はどこから生まれてきたのだろうか。天国や極楽を志向する宗教観からなのだろうか。それともバーチャルな世界を素材にしたゲームや漫画の影響なのだろうか。 それにしても多くの子ども達が、このような死生観を持っているということは、来世の愛を誓う恋愛小説のロマンとは異質である。つまり、戦いや暴力の中での「死」は、自分にとっては恐怖であっても、他者に対しては無感動である。 私たちは今、幼児教育を担っている。まさに「三つ子の魂」を育てているのである。前回紹介したTくんの体験等、子ども達の関心を活かしながら、「命」に触れさせることによって、「他者の死」への想像力を培うことが大事であると考えている。 夏休み前のことになりますが、T君のお母さんから、連絡帳を通して次のようなお手紙を頂きました。ちょっと長くなりますが引用させていただきます。 「(前略)今まで“やってみよう”という行動へはあまりつながっていなかったと思うので“やる気”という気持ちが出てきたことは嬉しく思うところです。マイペースなTで、年長になってどこが変わったろう?と思う感じだったのですが……日々変わっているのかなと改めて思いました。2学期は、見守りながら変わっていく姿を実感したいです。一つ驚いたのですが、今Tの周りはカエルを捕るのが流行っているのでしょうか?今まで苦手と思っていたTがカエルを手に乗せて見せに来たのです。母の方が苦手で、園長先生がちょうど外にいらっしゃったのですが、恥ずかしながら逃げ回る様子をお見せしてしまって情けなかったのですが、これも身近に生物とふれあえる環境を作ってくださったからだなと思いました。それで、こういう時は(せっかく見せに来てくれて、ママも手に乗せてと言われて、でもしつこくしたので怒ってしまったのですが……)我慢して母も受け入れてあげないといけないのでしょうか?親が苦手と思うことは子どもにも影響するかなと気になっているのですが……Tがカエルを捕まえて、怖がっていたとばかり思っていたので嬉しかったです。(後略)」 確かにこのときの様子は私も見ていました。意地が悪いことににやにやしながら、お母さんが逃げまどう姿を見ていたのです。 親が子供の持っている興味に共感できる、また一緒に遊べるということは、親子の通じ合いの幅を広げたり深めたりするうえでとても大事なことだろうと思います。また、まだ虫を掴めない子どもに勇気を与えるために、親が率先した姿を見せるということも有効なことだと思います。意図的にと言うよりは、子どもが普段目にしている親自身の日常的な生活・行動、あるいは得手不得手ということが子ども達の育ちに影響を与えているのは事実だと思います。そういった意味で、お母さんもカエルを掴んでみせて、「おもしろかったね。」と言い合うことができれば、T君の尊敬も勝ち得て、親子の共通の話題の幅も広がることになるのでしょう。 T君は、すでにカエルを掴むという力は獲得しているわけです。このような力は親からだけ得るわけではありません。友達から或いは園での生活などから得ることも大きいのです。事実、T君は園の中で友達と遊びながらカエルを捕まえることができるようになったのだと思います。 そこで、年長のT君にはもう一歩高い目標の獲得を期待したいと思います。それは、人との関わり方ということです。 つまり、カエルが好きな人もいればカエルは苦手だという人もいるのだということ、そして嫌いな人に対しては無理強いをしてはいけないのだということに気づき、行動のできる子になるということです。 親子で追いかけっこをしているうちは、親子の親近感の範囲でしょうが、それが度が過ぎたり、他人、特に弱者に対してそのような行為が行われた場合には、強くしかることも必要になるのではないでしょうか。指導の仕方、しかり方の程度はケースバイケースでしょうが、子どもに身につけさせたいことに対する、親として持つべき姿勢は揺るぎないものでありたいと思います。 その後T君のお母さんのお話を伺いました。T君すっかり虫好きになり、捕まえては家でもいろいろ飼っていたそうです。しかし、虫たちはTくんの手の中で、どんどん弱っていき、親子でおろおろするばかり。虫たちのそんな様子に、T君は涙ぐむこともしばしばだったとのこと。結局、親子で話し合って、飼育する知識もないことから、自然の中に放してやることが一番よいということになったのだそうです。 幼児が昆虫に興味を持つのは、ほ乳類と比べて異形ということにあるのでしょう。それだけになかなか触れない子もいるのかなと思います。そして昆虫は異形であるが故に構造的なおもしろさがありますし、何度も昆虫に触れていることによって、その特徴を観察し、知識として身につけていくことができるのです。 また、子どもは残酷な面もあります。蟻などを見つけると、「踏んづけてやれ。」などとわざと殺そうとする行為も見かけます。しかしT君のように、自分で飼育することによって、愛情も湧き、体が弱ってきたときや死んでしまったときなどに、「命」ということを感じたり考えたりする経験を得るのだろうと思います。 先日、あるお母さんが「飼育していたクワガタが卵を産んだんです。」と嬉しそうに話をしていました。無事成虫になることを願っています。(H16.9.7) 2004年09月にブログ「めるへんの森幼稚園【園長室から〜園だより】」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。 他にも多くのエントリーがあります。メインページやアーカイブページも見てください。 |